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三
エレベーターが1階に到着した。港のすぐ隣に工場がある某大手製造業のロゴが入った作業服を着た40代の男性が、軽く頭を下げながら降りて行った。
同じマンションでも、階が違えばたまに顔を見かける程度で、名前すらも知らない。それは理佐も同じようだった。
「美名ちゃん、彼氏できた?」3階に到着するまでの短いあいだ、理佐が言った。
理佐は美名に会うたびに、必ずこのことを訊いてくる。まるでまだ訪れていない美名の恋模様を、自分のことのように期待しているようだ。
「いえ、できてません」
「そう。美名ちゃん、可愛いのに男子どもは何をしてるのかねぇ。学校にいいイケメンいないの?」
「いないこともないですけど、カッコいい人にはだいたいもう彼女いますから」
「そっか。それもそうよね。どっかにいい男いたら、私にも紹介して」理佐は冗談めかして言った。「でもね、女の子だからって、ずっと受け身でいちゃダメよ。いいなって思う男の子がいたら、積極的に自分からアプローチしなきゃ。恋愛なんてスポーツと一緒で、失敗しながらじゃないと上手にできるようにはならないんだから」
ドアが開いた。
「それじゃ、またね」
理佐は手のひらを軽く振って301号室に入って行った。
美名も短い廊下をわたり、305号室に入る。サンダルを脱いで洗面所に行き、両手を丁寧に水で洗った。
リビングに戻ると、ダイニングテーブルの上にはみそ汁とお茶碗に軽く盛られた米飯が用意してあった。
美名は椅子に座り、
「いただきます」というと箸を持って朝食を食べ始めた。
相変わらず音量を抑えたテレビが、人気の個性派女優とお笑い芸人の結婚記者会見のもようを伝えている。「ふたりの馴れ初めは?」や「どんな家庭を築いて行きたいですか?」などという芸能リポーターの質問に対して、お笑い芸人が少し困ったような、しかしうれしそうな表情で受け答えをしていた。
「今日、午前中60%で午後からは雨だって。どうする?」と唯介が台所で作業をしながら言った。
美名は口の中に入っている米飯を咀嚼しながら、少し考えて、
「バスにする」と言った。
「じゃ、帰り迎えに行くよ。何時くらい?」
「いいよ。帰りもバスで帰るから」
「遠慮しなくていいって。お父さんも今日は午後から空いてるから」
美名は箸の動きを止めて、しばらくお茶碗のなかをじっと見つめたが、やがて、
「今日は課外授業ないから、四時すぎくらい」と答えた。
「うん。わかった」
唯介は茶色いチェック模様の布で包まれた弁当を、美名の目の前に置いた。
「かつおのふりかけ、付けといたから、ごはんに掛けてね」
「あ、うん。ありがとう」
続いて唯介は、台所にお盆の上に米飯の入った茶碗とみそ汁の椀を乗せ、それを両手に持つと宏司の部屋の前まで行った。
唯介が扉を軽くノックした。
「宏司くん、ごはん。置いとくから」そう言って、椀から湯気の立っているお盆を床に置いた。
間もなく、宏司の部屋のドアが開いて、指先だけが姿を見せると、お盆を引きずるようにして部屋の中に入れた。
そしてドアはすぐにバタンと小さな音を立てて閉まる。
宏司が引きこもりになってから、すでに2年以上になる。外出することなど皆無で、風呂とトイレ以外は部屋から出ることもしない。ともに暮らしている美名でさえ、宏司の姿は月に一度くらいしか見ない。
直近で兄の姿を見たのはいつだったか。先々週くらいだったと思う。美名が風呂から上がって出ると、おそらく尿意を我慢していたであろう宏司が自室から出てきて、駆け込むようにトイレに入った。
稀にしか見ることのない宏司の姿は、そのたびに病的になっていく。日に焼けることのない肌は、まるで腐りかけの豆腐のような黄白色をしていて、歩くたびに過度の運動不足が形を表したような腹回りの皮下脂肪が、シャツを隔てて波を打っている。二重アゴの左右にも両の頬が腫れたように丸く脂肪が付いている。髪の毛は伸び放題になっていて、後頭部で輪ゴムで留めてポニーテールのように髪型。ヒゲだけは風呂に入るときにきちんと剃っているらしく、まったく伸びてはいない。
最後に兄と会話を交わしたのはいつだったか、思い出すのも難しい。
宏司が引きこもりになるきっかけは、美名も知らない。3年前、兄は高校二年生だったが、ある日を境に通学を強く拒否するようになり、結局学校は中退することになった。
父や母は、兄が引きこもる原因となった理由を知っているのかもしれないが、部屋にこもって出てこない兄について真剣に話をするのは、まるでタブーであるかのように避けられていた。
唯介が用意した食事を、自室のドアを開けて部屋に引き入れて食べているということは、兄は今日も生きているらしい。美名が宏司について知ることのできる情報は、それ以外には何にもなかった。
この兄のせいで、三年前から美名は学校の友人を自宅マンションに呼ぶということがほとんどできなくなっていた。
しかし、いったん引きこもりになった人間を、無理矢理引きずり出すという行為は、自殺をまねく可能性があるため、決してやってはいけない。専門家に相談した唯介は、そのようなアドバイスを受けた。
美名が自室で無為に過ごしている兄に対して唯一できることは、何もしないということのみだった。
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