95人が本棚に入れています
本棚に追加
五
山之井二丁目停留所から、5つ目の停留所にバスは停車した。降車する乗客はおらず、ひとりだけ杖をついた老人女性が緩慢な動きでバスに乗り込んだ。
この辺りは市の郊外に再開発された住宅街に近く、片側二車線の道路の左右には、店舗面積よりもはるかに広い駐車場を兼ね備えたコンビニや大手洋服チェーン店、ファミリーレストランなどが並んでいる。まばらに田畑や耕作放棄地も残っており、開発途上の、あるいは永久にこれ以上は開発されないであろう様相を呈している。
再びバスが出発し5分あまりが過ぎたところで、赤信号で停車した。
ぼんやりと風景を眺めていると、交差点の横断歩道を渡っているまばらな歩行者の中に、よく知っている顔を見つけた。
自転車の前カゴに大きなバッグを入れ、手でハンドルを押しながら歩いているそのショートカットの40代の女は、美名の母親である城岡真子(しろおかまこ)だった。真子の勤務先は数百メートル先にあるから、ここに真子の姿があるのは必ずしも偶然ではないが、バス通学の途中に母の姿を見たのは初めてだった。母は、これからマンションに帰宅するのだろうか、それとも、どこかに行くのだろうか。
「お母さん……」と美名は誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた。
真子のすぐ横には、30代前半くらいの名前も知らないひとりの男が並んで歩いている。美名に見られているとはつゆほども思ってない母は、その男と笑顔で会話をしながら、横断歩道を渡って行った。
美名はその後ろ姿をバスの中から目で追うと、歩行者用信号機の青灯が点滅している向こうで、真子が男にまるで恋人どうしであるかのように身体を寄せて、ネコのように頭を男の肩にこすりつけて甘えていた。
前の信号が青に変わったので、バスは再び発進した。母の後ろ姿は、バスの窓の端に消えていった。
「次は、広瀬総合病院前、広瀬総合病院前です。お降りの方は降車ボタンをお押しください」アナウンスが流れると、誰かがボタンを押したらしく、電子音が鳴ると同時に、前面上部のディスプレイに「つぎとまります」の表示が点灯した。
母が数年前から、夜勤と称して見知らぬ男と不倫をしていることは、美名も気づいていた。唯介もまちがいなく知っている。ひょっとしたらひきこもりの兄でさえ知っているかもしれない。真子がバレていることに気づいているのかどうかは知らないが、ああも堂々と人目のあるところで仲よさそうにしているところを見ると、真子も務めて隠そうともしていないのだろう。
その事実を知っていた、とは言っても、実際に母が父以外の男に女の顔を見せている姿を見ると、強い戸惑いを感じる。その感情は、嫌悪感と言ったほうが正確かもしれない。
もちろん美名としては、母に不倫などやめて欲しいと思っているが、それをどのように訴えればいいかわからず、今日まで何もできずにいる。
さっきの真子の、嬉しそうに男と談笑している顔を思い出し、美名はもう何年も家であんな表情の母を見たことがないと、ようやく自覚した。
唯介と真子は、もはや仮面夫婦というありきたりな言葉で表すにも足りないくらい冷め切っている。夫婦喧嘩すらも起こらない。必要最低限のやりとりは携帯電話のメールでしているようだが、面と向かって口を聞くことは、全くなくなっていた。
真子は極力、家には帰りたくない、正確に言えば唯介の顔を見たくないらしく、家には食事と風呂と睡眠のためだけに帰っているようなものだった。
夫婦の寝室のはずだったマンションの洋室は、今は真子ひとりの部屋になっていて、唯介は立ち入り禁止の状態になっている。唯介は毎晩、リビングの二人掛けのソファに毛布をかぶって寝ている。
夫婦仲が冷めたから真子が不倫をしたのか、それとも真子が不倫をし始めてから夫婦仲が険悪になったのか、それは美名にはわからない。夫の専業主夫を認め、家庭の大黒柱を引き受けるような真子にとっては、およそ家庭的な穏和な女性に留まることは、最初から無理があったのかもしれない。
夫婦を家の内側から見てみれば、このようにすでに実質破綻している状況にあるのだが、おそらく第三者の目から見れば、いびつな形ではあっても家族という形は整っている。きっと理佐などは、城岡家の内情がこんなことになっているとは、想像もしていないだろう。
なぜ母が、そこまで配偶者である唯介を嫌っていながら離婚という選択を避けて仮面夫婦を続けているのか、美名にはわからないが、おそらく唯介と共同名義になっているマンションのローンも、ひとつの理由になっているのだろう。
とにかく、城岡家は実質破綻状態ではあっても、形式上のみは破綻を避けて、危うい均衡が辛うじて成立している。美名は、息のつまるような毎日ではあっても、無理にこれを崩さなくてもいいのかもしれない、とも思う。
美名としては、真子が心を入れ替えて唯介と和解し、再び家族を愛するようになることを希望しているが、おそらく、それが実現する可能性はほぼゼロだとすでに諦めている。
最初のコメントを投稿しよう!