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 美名のクラスの担任教師は50代男性で、物理を教えている。  理系の教師なのに歴史マニアで、朝のホームルームで連絡事項が少ない日は、余った時間で授業では習わない歴史の裏話みたいな内容のことを話すのを習慣としている。  今日も午前中に行われる進路相談について簡単に説明すると、江戸時代の元禄期について一生懸命しゃべり始めた。しかし、それに耳を傾けている生徒はほとんどいない。みんな私語をするか、俯いてスマホをいじっているか、机に突っ伏して寝ている。  美名もスマホをいじっているうちのひとりで、ブラウザで好きなタレントのインスタグラムなどを見ていた。美名が座ってる席の背後からは、ずっとクラスメイトの男子が私語をするひそひそ声が聞こえてきている。その声のなかにときどき女性器を表す隠語が混ざって、いやらしい笑い声を立てている。 「五代将軍吉綱のころの勘定奉行、荻原重秀は賄賂まみれの政治を行い、利権にまみれていたと言われているが、その根拠となるのは政敵ともいえる新井白石の著書である……」  あまり朝から頻繁にスマホを操作していると、放課後を待たずに電池をすべて消耗してしまうことさえある。美名はスマホの設定画面を表示させて、画面が暗くなる省エネモードに変更した。  いきなりスマホが手の中で短くバイブレーションし、SNSアプリがメッセージの受信を知らせてきた。  SNSアプリを起動させると、「お昼、どうする?」という文字が、吹き出しのなかに表示されていた。  送ってきた相手は、中学のころからの友人で、隣のクラスの牧場莉乃まきばりのだ。 「今日、午後から雨降るみたいだけど」  返信をすると、即座に「既読」の文字が噴き出しの下に出現した。  教室の窓の外を見ると、日がすっかり昇ったせいか、朝よりは少し明るく見える。しかし、重い曇り空であることに変わりはない。 「じゃ、もし雨が降ってなかったら、屋上行こうか」 「了解」  担任はあいかわらず教壇に立って、「綱吉の死後に将軍に就いたのは、綱吉の養子の家宣ですが、間も無く病に倒れ、その後に将軍になったわずか4才の家継もすぐに病死し、将軍が二代続けて就任後間も無く死ぬということが続いたため、暗殺説がいまだに根強く……」と誰も聞いていない演説を続けている。  莉乃とメッセージの往復をしているうちに、ホームルームの終了を知らせるチャイムが教室のスピーカーから響き始めた。  担任は話を途中で打ち切り、 「それじゃ、さっき言ったとおり今日の四限は進路相談だから、配った紙に志望大学と学部を書いた上で、番号順に3階の物理準備室に来るように。待っている間は、静かに自習してください」と言うと、出席簿を持って教室を退出して行った。  昼休み。  美名は弁当の包みを持って屋上に向かった。そこで莉乃と一緒に弁当を食べるのがほぼ学校での日課になっている。  同じクラスに仲の良い友達がいないわけではないが、莉乃は美名にとって唯一心を許せる相手だった。  踊り場に文化祭や体育祭で使う備品が置いてある暗い階段を登って、「立入禁止」の貼り紙がしてある金属製の分厚い扉を押した。鍵のかかっていない扉は重々しく動く。  屋上は鉄条網付きの高い鉄柵に取り囲まれていて、その鉄柵を隔てて駅前の背の高い商業ビルがまばらに突き出した様子が見える。  莉乃はまだ来ていないようだ。というよりも、ほかに人は誰もいなかった。いつもなら、昼休みにはもう2,3人くらいはいるのだが。  美名は出入口のすぐ横の冷たい壁を背もたれにして座った。背後から誰かが階段を上ってくる振動が微かに伝わってくる。  だんだん大きくなった足音がドアの向こうで止まると、ギィーという金属が擦れ合う音がして、扉が開いた。 「あ、もう来てたんだ。おまたせ」と莉乃が言った。 「あ、うん」と美名は軽くうなずいた。  莉乃は制服の棒タイを外して、楽な格好になっている。美名のすぐ横に座って、弁当が入った巾着袋を屋上の地面に置いた。  莉乃と美名は、かなり性格が異なる。どちらかといえば引っ込み思案な美名だが、莉乃はかなり豪快で大雑把だ。見た目も、ショートカットで黒髪の美名とは対照的に、薄く栗色のカラーの入ったロングヘアを、風になびかせている。その長い髪の毛が大人っぽい魅力を醸し出しているのか、莉乃は制服を着ていなければすでに二十歳を超えているように見える。一方、美名のほうはいまだに中学生のあどけなさを残していて、ふたりが並んで歩けば少し歳の離れた姉妹のようだった。  中学一年のときに同じクラスになったのがきっかけで知り合ったのだが、正反対の性格がパズルのピースのようにうまくはまったのか、ずっと関係が続いている。 「あー、やっぱすごい曇ってるね。雨降るのかしら」空の黒い雲を見上げて莉乃が言った。 「午後からは降水確率90パーセントだって」 「へえ。うちのクラス、五限は体育なのよね。雨降ったら保健の授業に振り替えになるから、さっさと降ってくれないかしら」  莉乃が巾着袋から小振りな弁当箱を取り出して蓋を開けた。美名も同じように弁当の包みをほどくと、かつおのふりかけが弁当の蓋の上に乗っている。 「いただきまーす」莉乃はそう言うと、プラスチックの箸をミートボールに突き刺した。
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