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ベルが鳴った。店の入り口の扉のものだ。多分客だろう。探しても見つからないようなこの店には冷やかしすら来ない。
読んでいた本を置き、階下へ降りる。男だ。若い。高校生だろうか。それとも大学生か。だがその顔に有限の青春をしゃぶりつくさんとする若者特有の精気はない。背筋は丸まっているし、手指は微妙な位置で絡みついて丸まっている。世界で自分が最も卑しいと思っているような仕草だ。どうも気弱な人間は手をああするのが好きらしい。しかも話を切り出さず、何かしらの変化が起こるまで行動を起こそうとはしないのである。
とは言っても、いつまでもこんな奴を入り口でうじうじさせている訳にはいかないので、さっさと席を勧める。男は何も言わずに、頭だけ軽く下げて座った。
この店に来るのはこんな奴ばかり。
この手の人間は要綱だけ説明してさっさとポッドにぶち込むに限る。
「1回、そうだな、5万でいい。前払いがな。成功報酬で別に5万。それ以上は取らないし値引きも受けない。いいな、金は?」
男は頷く。がくがくと。しかし喋らない。好くような人間ではないが、しかし楽な金ヅルだ。変に口が過ぎるやつよりはずっといい。
「あのポッド、見えるか? そう、それ、それだ。あれに入って、次に目が覚めたらお前は仮想空間の中だ。そいでお前は好きな行動をとる。好きなだけな。飽きたらこのポッドに戻ってくる。ポッドで一眠りしたら、今度は現実だ。オーケー?」
頷く。がくがく。そしてポッドと机を交互に見る。目は合わせようとしない。合わせられないんだろうな。
「お前は好きなだけ向こうにいていい。何日だろうが、何年だろうがな。だが、行動不能になったら駄目だ。死ぬ、植物人間、脳だけ繋がれて永遠の生を得る、どれも駄目だ。自力でポッドに戻れ。でないとお前は一生向こうの住民。あのポッドは燃えないゴミなのに火葬されることになる。これもいいか?」
がくがくがく。話は素直に聞いているが、どうも怖くなってきたらしい。目が怯えている。だがやめることはないだろう。こういう人間は世界が自力で変えられないことを知っている。知っているからやらない。あるいはできないのか。
話は終わりだ。無言でポッドを指差す。男は少しの逡巡の後、ゆっくりと立ち上がり、財布を取り出し、机に1万札4枚と5千札2枚を机に置き、のっそりとポッドを開け、そしておずおずと入っていった。それを見て、機材の操作を少々。ポッドの中の酸素量を調節し、死なない程度に呼吸させ気絶させる。これで起こさない限りこのままだ。あとはタイマーを5分にセット。本を取り出し、続きを目で追っていく。
……タイマーが鳴った。が同時にベルが鳴った。あいつを寝かしたままだが、外にいるのは貴重なお客さんだ。気絶してるあいつはほっとけばいいだろう。どうせ起きやしない。
入ってきたのは女だ。身長が高く、派手で洒落た服に化粧。この手の人間は……、やっぱりだ。見たことがある。数年前に来た客だ。あの時はさっきの男とおんなじような奴だったが、数年でいいことがあったらしい。女はこちらを認めると、礼儀正しく深々とお辞儀をした。
「満足のいく結果になったか?」
「……ええ、とても、とても感謝しています。何と言っていいのか……。あとはこの結果を、……ポッドに戻ればいいんでしたよね?」
「いや、その必要はない」
女のぽかんとした顔。その後不安を覗かせる。そんな顔されてもお前は何も悪いことはしてないぞ。
「ああ、別になんでもない。お前はそもそも仮想世界になんかいないんだ。あのポッドで気絶して、そのまま現実世界に戻っていっただけだ。お前は自力で掴んだ今の生活に帰るだけでいい。ここに5万を置いてな。……あれ、前は2万だったか? 覚えてないな……。うん、そうだな、2万でいい」
更に困惑。どうも納得いっていないようだが、やってないもんはやってない。この女は後があると考えて夢を追い、現実にしたんだろう。役者か偶像か。少なくとも俺の力ではない。やったのは一種の精神療法のようなもの。まあそれはそれとして、報酬は報酬だ。2万を置いた、未だ合点のいかない女を何も言わず、というか言わせずに帰した。
さて、ようやく本を……、いや、男だ。あいつがいた。また機材の操作を少々。酸素量を戻し、意識を覚醒させる。そのまま20秒ちょっと待ってポッドを開ければ不安げな男が生えてきた。どうも仮想世界というものを信じ切れていない、というかその通りで現実世界にいるわけだが、いい感じの雰囲気を出しつつ好青年の如く肩を叩き、出口を指差した。男はようやく懐疑を取っ払ったらしく、幾分か晴れやかな顔で店を出ていった。後はあいつがどうにかするだろう。また本を取り出し続きを、……まただ、またベルが鳴った。くそ。
今度は男だ。さっきの奴ではない。ぼろきれを羽織り、髪も髭も伸び放題で手入れなどなされていない。目には世界に対する理不尽な怒りが渦巻いていた。こういう奴は、まあ失敗したってとこだろう。仮想世界だと思い込んで、無茶の末に身を滅ぼした馬鹿だ。
「満足のいく結果になったか?」
一応聞いてみる。形式上。もしかしたら大成功してこの風貌やもしれん。いやないか。万が一あったら小説家にでもなってやろう。
「……散々だよ。上司に歯向かってはみたが、会社に揉み消され俺は家を失った。こうも……、こうも社会ってのは理不尽なものだったんだな……。現実では慎ましく生きることにするよ。言うことを聞いていればお金が貰えることが、なんて幸せなことだったんだろうって実感したからね……。ところで、このままポッドに戻ればいいのかい?」
頷く。いい感じの雰囲気を出しながら藪医者の如く神妙な顔でポッドを指差す。入ったのを確認し、機材の操作を少々。酸素量を少なめに、あとは気絶させる。意識を失ったのを確認し、ポッド内を冷凍、酸素量を0へ。後は火葬屋に頼むだけだ。
仮想屋が、火葬屋に。……これは駄目だな。小説家は諦めることにして、大人しく本を開いた。
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