出世欲

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 朝の日射しが、私を夢から現実に引き戻そうと私の瞼の奥の方へ差し込んでくる。  もう朝か。朝よ、おはよう。  いつものように私は朝に語りかける。  今日は大事な会議がある日だ。そのために、今朝は気合いを入れて、いつもより一時間早い朝5時に起きた。いつものように6枚切りの食パンを2枚トースターで焼いて、バターを付けて食べる。牛乳も一杯飲む。それから朝のニュースに目を通す。上司、後輩、同僚との会話についていけるように。これは会社のプレゼンでも役立つ大事な時間だ。時事ネタは確実に人の興味を惹く。  食事が済んだら髭を剃り髪をセットする。服装の乱れも厳しくチェックする。身だしなみを整える。トイレも済ましておかなければ。ついでに鏡の前でもう一度プレゼンのシミュレーションを頭の中でしておく。  今日のプレゼンは、一週間前から何度もシミュレーションしては練り直しを繰り返して、もうこれ以上無いという出来だ。こういうとき、学生時代に落語研究会で落語を人前で披露したことが役に立った。落語では、身振り手振りはもちろん、表情、間、言葉の緩急が大事だ。さらに、客席の空気に応じて多少言い方を変えてみたり、ウケたところはさらに引っ張ったりして、より笑いを生み出す。これこそ落語から学んだ技術。  これで私の出世は確実だ。まさに芸は身を助く。  それにしても、さっきからなかなか終わらない。キレが悪い。踏ん張っても踏ん張っても全然出てこない。散々踏ん張って、おならが出ただけだ。トイレに入って10分が過ぎた。まだお腹は痛い。  おっと、気づけばあと5分だ。急げ、俺。あと5分で電車に乗らないと遅刻してしまう。遅刻したらこれまでの努力が水の泡だ。これまでやってきたことを、水に流すことになってしまう。大便だけに。  出社時間にはギリギリ間に合った。「珍しいな」とか「プレゼンで緊張したか」とかいろいろと同僚から野次を飛ばされたが、私に動揺は一切ない。なぜなら、プレゼンが完璧だからだ。  持ち時間は10分。まずは軽い枕話から始める。いきなり本題に入ったって、誰も興味を惹いてはくれない。出だしは、今話題のテーマを語り、皆と自分の距離感を縮める。話題のテーマは、昨日の朝のニュースで見た韓国ドラマの話だ。 「最近、韓国ドラマが流行っていまして、愛の不時着という」  まずはエピソードトークから。そして、自然な流れでプレゼンに入っていくのがテクニックだ。とりあえず、皆韓国ドラマの話に食いついている。  ちょっと盛り上がってきたな。せっかくだからもう少し引っ張って、より盛り上げてから本題に入るとしよう。いや、ちょっと待てよ。時間を確認してみよう。  ちらっと時計に目をやると、もう5分経っていた。  あと5分しかない。話術のキレが良すぎて持ち時間の半分近くを枕話に使ってしまった。しかし、ここまで来て引き下がることはできない。私の出世がかかってるのだ。あと5分、自分に何ができる?  慌てるな。まずは落ち着くこと。こういうときに動揺してミスをするのが一番痛々しい。落ち着いて、周囲を確認する。一人一人の顔をじっくり見ていく。落ち着くどころか、より緊張してきた。落ち着け。とりあえず何かしら声を出して時間稼ぎだ。いや、時間が無いのに時間稼ぎするのは、自分で自分の首を絞めることになる。ではどうする?目の前の水を飲もう。ゴクゴク。ゴホゴホッ。しまった。焦って水を一気に飲み過ぎて噎せてしまった。しかも飲んだ水が鼻から出てきた。マーライオンの口の如く鼻から流れ出てくる。  それを見た上司たちは笑ってくれた。しめた。空気が温まってきた。この調子ならここから10分プレゼンしても多目にみてくれるはずだ。私は出世街道驀進中だ。  すると一人の上司が「君、もういいよ。次頑張って」と言って、さあこれからという私のプレゼンを遮った。私の出世は無くなったということだ。プレゼン自体には自信があったのに悔しい。    もう朝か。朝よ、おはよう。  いつものように私は朝に語りかける。  私はもう会社を辞めていた。しかし、今日はまた別の大事な仕事がある日だ。そのために、今朝は気合いを入れて、いつもより一時間早い朝5時に起きた。いつものように6枚切りの食パンを2枚トースターで焼いて、バターを付けて食べる。牛乳も一杯飲む。それから朝のニュースに目を通す。これは今から取りかかる大仕事に役立つ大事な時間だ。時事ネタは確実に人の興味を惹く。  食事が済んだら髭を剃り髪をセットする。服装の乱れも厳しくチェックする。身だしなみを整える。トイレも済ましておかなければ。ついでに、鏡の前でもう一度脅迫のシミュレーションをしておく。  この、会社への脅迫は、一週間前から何度もシミュレーションしては練り直しを繰り返して、もうこれ以上無いという出来だ。  まず電話で社長と交渉。その後、直接会って詳細な交渉を自分に有利になるように進める。この計画なら必ず成功するはず。こういうとき、学生時代に落語研究会で落語を人前で披露したことが役に立った。落語では、身振り手振りはもちろん、表情、間、言葉の緩急が大事だ。さらに、客席の空気に応じて多少言い方を変えてみたり、これこそ落語から学んだ技術。脅迫するにあたって必要なのは、平静と自然だ。激しい脅迫は、ことを大きくしすぎて失敗に終わることが多いが、冷静に穏便にことを進めることで、相手に恐怖心や動揺を与え、成功に導きやすくなる。  あと、今日は快便だ。  まずは社長に直接電話をかける。あくまでも冷静に。まず最初に世間話だ。確か社長は航空会社の株を持っているという話を盗み聞きした。その話から徐々に私の出世の話に移行する。  プルルル、プルルル、プルルル、1分経った。出ない。  プルルル、10分経った。なかなか出ない。  あと5分。プルルル、プルルル。出ない。もうあと5分。プルルル、プルルル。  出ないので電話を切った。  結局失敗に終わってしまった。そのあとまた電話をしたが、昼にかけても夜にかけても電話にでなかった。仕方がないので次の日会社に行って、憎い上司を一人ずつ刺し殺してきた。最後に社長を殺すとき「あと5分、あと5分待ってくれたらどうにかするから」と言われたが、私のプレゼンすら待てない人間が何を今さらと思い、何回か胸を刺した。あまり覚えていないが、20回くらいだと思う。  これで私の出世の道は完全に途絶えたが、いつの間にか私から出世欲が消え失せていたので、ひとまずよかった、よかった。
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