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「あなたが盗んだんでしょ」  人は忘れてしまう生き物だ。どうやら阪上先輩もその例に漏れてはいなかった。昨日までは確かに存在していた信頼関係も友情もあっけなく忘れてしまったらしい。  阪上先輩から着信が入ったのは数分前のことだ。ランニングを終え寮に戻り、廊下で友達と話していた時だった。  電話口から聞こえてくる先輩の口調は刺々しく、これは何かやらかしたか、と思ったが心当たりはなかった。早口なうえに周りの音でよく聞こえなかったがどうやら先輩の財布が何者かに盗まれたらしい。そして容疑者役はわたしに選ばれたらしい。  阪上先輩に呼び出された自習室に行くとそこには十数人ほどの顔が並んでいた。知らない顔もあったが大抵は名前と顔が一致した。そして中には寮監室のおばあちゃんとわたしの担任も混じっていた。 「先輩の見落としということはないですか?」  あるはずはないが一応聞いてみた。 「そんなバカなことがあると思う」  それはそうだ。先輩達はじっくり観察し、そして考え、その上でわたしが犯人だと決めつけている。しかしだからといって犯していない罪を被るほどわたしはできていない。 「犯行推定時刻は夕方の五時から三十分の間なんですよね。その時間ならわたしランニングをしていました。財布を盗むのは無理かと」  しかしわたしの隠した小さな嘘はすぐに見破られた。阪上先輩は勝ち誇ったような笑みを見せる。 「水鳥川が寮に戻ってきたのは二十分を少し回った頃でしょ。部屋に入って財布を盗むことくらい二分もあれば十分よ」 「でも寮に戻ってきてからは三上と、ああ、後輩の子と話していました」  どうやら阪上先輩はそのことも把握していたようだ。 「部屋に一度戻り、着替えを済ましてからその子の部屋に行ったのよね」まるで、と言う。「アリバイ作りをするために、周りの子に見せびらかすように廊下で話していたんでしょ」  もしかすると阪上先輩は相当なミステリオタクなのかもしれない。アリバイ作りなんて単語は普通に生活していればすんなりと出てこないだろう。  しかし冷静になって考えると上手く納得できないことがある。そこで訊いてみた。 「ところでどうしてわたしだけが疑われているんですか? 寮には他の生徒もいるのに」  どうやらわたしの質問は心底つまらなかったのだろう。阪上先輩はため息を漏らした。 「被害現場には鍵がかかってた。もちろん窓にもね。鍵を持っているのは私と水鳥川しかいないわ」  ああ、なるほど。わたし達の部屋、阪上先輩の言い方を借りると被害現場には鍵がかけられていた。つまりその部屋に入れたのはわたしと阪上先輩しかいなかったわけか。財布を盗まれたのは阪上先輩の自演で実は被害者を装った容疑者なんてドラマチックな展開を考えないなら、自ずと容疑者候補は一人に絞られる。だから犯人役はわたしなのか。  馬鹿馬鹿しい。自然とため息が漏れる。しかしまだ反撃の余地はある。横目でちらっと寮監室のおばちゃんこと三浦さんを見る。しかしその目線だけでわたしの武器はバレたらしい。阪上先輩が言う。 「三浦さんにはアリバイがあるわ。犯行推定時刻の間は寮監室を一歩も出てないし、それにある生徒の悩み相談を聞いていたから証人もいるわ。三浦さんがマスターキーを使って被害現場に入る時間はなかったのよ」  なら三浦さんではない誰かがマスターキーを使って、と考えていると阪上先輩に先を越されてその道を塞がれた。 「寮監室からマスターキーを盗み出すのは不可能よ。だってそうでしょ。あんな広くもない部屋に三浦さんと生徒が一人いたのよ。二人の目を誤魔化して、なんて現実的じゃないでしょ。つまり犯行にマスターキーは使われなかったのよ」  阪上先輩のドヤ顔が腹を立たせた。でもその顔に泥を塗れる武器はもう持っていない。このままでは、なし崩し的に犯人にされてしまいそうな雰囲気を感じる。しかし適切な言葉が浮かばない。結局はこういうことしか言えない。 「わたしは盗んでいません」 「私たちの部屋に入れたのは水鳥川だけよ」 「わたしは盗んでいません」 「水鳥川以外考えられないの」 「わたしは盗んでいません」 「嘘はやめなさい、水鳥川さん」  阪上先輩の隣からわたしの担任教師の前田先生が口を挟んできた。見るといつもは優しい微笑みを向けてくれる前田先生の顔は暗くなっていた。わたしは慌てて弁解する。 「前田先生、聞いてください。わたしはやってないんです」 「あなた以外に犯行は不可能なのよ」三上先生は呟くように言った。「罪を認めてしっかりと謝罪すればきっと坂上さんも許してくれるわ」 「だから」と言いかけて口を閉じた。  坂上先輩も前田先生も、彼女たちの耳はもうわたしには傾いていないのだろう。どれだけの言葉を重ねても、どれだけの熱意を伝えても彼女たちの心は動かせない。一度殻に篭った人間を外に出すのは難しい。自分の考えを簡単に撤去できるような脳の作りに神様はしてくれなかったのだから。  でもわたしはそんな人達が殻を破る姿をこれまでに何度も見たことがある。それに殻を破る方法も知っている。わたしは腕時計で時間を確認する。五時五十分。 「一時間だけわたしに時間をくれませんか。必ずわたしの無実を証明してみせます」 「三十分よ。夕食までにははっきりさせたいの」と坂上先輩が言った。  三十分か。あまりにも短い。それではわたしの計画していた方法が使えない。 「せめて四十五分頂けませんか」  少し黙ってから、どうでもよさそうに阪上先輩は手を振った。 「六時半には自習室にいなさい」  そう言うと、取り巻きに囲まれながら坂上先輩は自習室を出ていった。すれ違いざまに先輩の取り巻きの一人が「言い訳を考えるのに四十分もかかるなんて馬鹿じゃない」と言った時には本気で殴ろうかと思ったが、やめた。  残った数名の生徒は各々に自習室を出ていき、前田先生は一瞬わたしを見て、覚えの悪い生徒に喝を入れる熱血教師のような表情を浮かべたが、結局は何も言わなかった。 「ごめんなさいね」  振り返ると寮監室のおばちゃん、三浦さんが立っていた。三浦さんは今年で六十歳を迎えると聞いたことがある。歳を重ねても可愛らしい顔つきの女性がいる。三浦さんはまさにそんな顔をしている。優しくて愛情が溢れている。三浦さんは普段通りの穏やかな口調で言った。 「庇ってあげられなくて」  あの場で好き好んで発言したがる人はいないだろう。それに三浦さんが庇ったところで状況が一変したとは考えられない。微笑みを浮かべながら言う。 「わざわざありがとうございます、でも大丈夫です」こほん、と小さく咳をしてから言う。「四十分後に証明されるわたしの無実は別に今じゃなくてもいいですから」  すると三浦さんはクスッと子供のように笑った。いつもお母さんのように優しく微笑む三浦さんが、こんな無邪気に笑うのは珍しい気がした。別に笑わせようとおもしいことを言ったつもりはないけれど。  三浦さんはごめんなさいね、と小さく呟いてからいつものように優しく微笑んだ。 「水ちゃんも結構ミステリ好きだよね。いまの『証明される無実は今じゃなくていい』ってあのミステリ作家の言葉でしょ」  恥ずかしさで顔が熱を帯びるのを感じる。あんなマイナー作家のしかもマイナーシリーズの脇役のセリフを覚えている人がいるなんて。しかし身近にファンを見つけた嬉しさは到底恥ずかしさには勝てない。 「この後、話を伺いに行くかもしれません。その時はぜひ協力をお願いします」  恥ずかしさを紛らわすために言ったこのセリフも少し芝居かかっているな、と心の中で感じる。どうやら三浦さんも同じ考えだったらしい。また無邪気に笑う。このまま話を続ければさらにボロを出すことになりそうだ。別れの挨拶も早々にわたしは自習室を出た。  一度自分の意見という殻に篭った人間を、他者の意見で外に出すのは難しい。でも逃げるわけにはいかない。この事件はわたしの今後の寮生活、さらには高校生活もかかっている。生半可な気持ちで挑むには失敗した時の代償が大きすぎる。  幸運とは思いたくないけど、真実というハンマーで偽りの真実で作られた殻を砕くのが、得意な人物を知っている。近寄りたくないし、話したくないし、関わりたくないし、会いたくないし、と「ないし」を盾に逃げることは簡単にできる。でも背に腹は変えられない。多分わたし一人の力じゃこの謎を約束の時間までに解き明かすことはできない。 息をゆっくり吸ってゆっくり吐き出す。準備はできている。 坂上先輩や取り巻き、それから前田先生のあの上からの態度も気に食わない。彼女達の悔しがる顔を拝むのも悪くない。  わたしはニヤリと笑った。 「わたし以外が犯人だと証明してみせる」
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