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「すみませんでした」  色々な準備を済ませてから自習室に行くと、約束の時間を十分ほどオーバーしていた。怒鳴り散らかすと思っていた坂上先輩は、意外にも冷静だった。むしろ謝罪よりも真犯人の名前を催促した。 坂上先輩の周りには一時間前に見た顔ぶれが大体揃っていた。取り巻き集団に前田先生、三浦さん。教室の隅には竹本先輩の顔も見えた。しかし表情までを読み取ることは難しかった。  わたしは遅刻の謝罪のために下げた頭を上げずに口を開いた。 「すみませんでした。先輩の財布はわたしが持っていました」  と頭をゆっくり上げてから、背中に隠していた坂上先輩の財布を差し出した。二つ折りの茶色の財布だ。どこにでもある形だ。 「どうして」と坂上先輩は驚いた声をあげた。しかしすぐに冷静さを取り戻し口調を整える。「どうして盗んだの?」 「信じてくれないかもしれないんですが、決して盗もうと思って持っていたんじゃないんです」  ポケットからもう一つ財布を取り出す。二つ折りの茶色の財布だ。坂上先輩の財布に似ているが別物だ。よく見なくてこっちの方が色は濃いし、ボロかった。 「わたしの財布と間違えて持っていました」わたしはもう一度頭を深く下げる。「でも故意はなくとも盗んだのはわたしです。お騒がせしてすみませんでした」  自習室の空気は重かった。言葉一つ発するのも苦労する。 「盗んだのはランニングを終えた後ね」  坂上先輩が呟くように言った。 「はい、そうです」 「いつ気づいたの?」 「つい数分前です。喉を潤してから自習室に行こうと思って財布を出したら自分のじゃないことに気がつきました」 「中身は使ったの?」 「いえ、一円も触っていません」  坂上先輩は小さく息を吐いてから、わかったわ、とだけ呟いた。  その瞬間自習室の時が動き出したかのように一斉に騒がしくなった。 四方八方からの言葉のナイフはわたしの身体を抉り取って行く。じっくりといたぶるように。覚悟は出来ていたがやっぱり涙は出てしまう。下を向き、溢れ落ちそうになる涙を必死に止める。でも重力に逆らえない涙の雫はポロポロとこぼれ落ちていく。そんな惨めなわたしの姿を見て、やりすぎたと思ったのか、それともただ単に痛めつけることに飽きたのか、坂上先輩の取り巻きたちは列を成して自習室を出て行った。  腕の裾で涙の跡を拭ってから顔を上げると、まだそこには坂上先輩が立っていた。わたしを見つめて言う。 「どうして嘘をついたの」  わたしはもう一度床を眺める。 「嘘ってなんのことですか」  少しの沈黙の後、そう、と短く呟いてから今度こそは自習室を出ていった。  一瞬ホッとした気持ちになったがすぐに背後からの声で現実に引き戻される。 「水鳥川さん。こっちを向きなさい」  振り返ると前田先生が立っていた。彼女の顔は悲しく怒っている。 「どうして先生の言う通りに初めから謝らなかったの」 「すみませんでした」  こんなことしか言えないわたしを見て前田先生はより一層悲しそうな顔を見せた。  もう二度と同じミスはしないように、と念を押されて前田先生も自習室を後にした。 周りを眺める。もうここに用事はなかった。重い足取りで自習室の扉まで向かう。最後にぐるっと室内を見渡したが、もうそこには三浦さんと竹本先輩の姿は見えなかった。
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