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発熱
アトリエから出て来ても、真一の脳裏にはあの眼差しが離れない。頭を振りながら、洗濯に取り掛かろうとした時、ハッと気づく。時計を見ると十三時過ぎだ。昼食の準備も済んでいるというのに、今日は柳が一向に起きてこない。今日は何の予定がないとはいえ、遅すぎる。
以前、放っておいたら『起こしてくれたらいいのに』と嫌味を言われたことを思い出した。
(仕方ねえなあ)
洗濯物を一旦置いて、真一は柳の部屋へと向かった。
「柳さん、まだ寝てるんですか?もう昼食の時間ですけど……」
戸をノックして声をかけたが、一向に返事がない。どれだけ寝てんだよ、対して仕事してねえだろ、と毒づきながら真一は戸を開けて中に入る。
夏毛布を掛けたまま、柳の体が見えた。こちらからは顔が見れない。
「柳さん」
声をかけても、反応しない。真一はだんだん嫌な予感がしてきてその身体を揺すった。
「柳さん?大丈夫ですか?」
身体を揺すってようやく顔が見えて、真一はギョッとした。
大量の汗を流している。顔色は赤い。額に触れるとかなりの高温だ。起きてこないのではなく、起きれなかったんだ、と真一は青ざめた。
「柳さん!!柳さんッ」
それでも身体を揺さぶるとゆっくり、柳が瞼を開けた。真一が泣きそうになりながらその瞳を見ていると。
柳は小さな声で、名を呼んだ。
「……イズミ」
***
以前、夏バテした時に、何かあったら訪問してくれる医者、青山がいると聞いてきたので早速、その医者に連絡をつけて来てもらった。
「熱中症ですね、あと少しで入院が必要でした」
白衣を着た青山医師が聴診器を納めながら、真一に告げる。当の本人は解熱剤が効いてきたのか、少し楽になったような顔をして寝ている。
「柳さんはたまに体調崩されるから、気をつけてくださいね。また何かありましたら」
そう言って名刺を真一に渡す。家まで来るなんてすごいなぁと思いつつも、何かあったら相談できる相手が出来てよかったと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございました。またよろしくお願いします」
それから夜を迎え、柳は眠りっぱなしだったが、熱は下がっていて安定している。今日一日は寝かしておくかと思ったが、水分だけは摂らないとまずいと思い無理矢理起こそうと真一は試みた。
「柳さん、起きて。水飲みましょう」
「んん……」
柳の身体をゆっくり起こし、コップに注いだ水を口元に近づけてやると、素直に水を飲む。喉が乾いていたのかあっという間に飲み干した。
眼鏡を外した柳の顔を、ゆっくりみたことがなかった真一。うっすら開けた瞳。長い睫毛。整った鼻筋……
ふいにその瞳が真一の方を向いたので、慌てた。
「柳さ……」
「もっと、みず、欲しい、泉」
今度はくっきりと聞こえた。イズミ、と。
高熱の後だから、まだ混乱しているのだろうか。真一は何も言わずに二杯目の水を注いで飲ませてやる。
トロンとした目で水を飲み干すと、ああ美味しいと柳はまた真一の方を向く。
「ありがとう」
そう言って微笑んだ。その微笑みを真一は見たことがなかった。そして柳はそのまままた眠ってしまう。
真一はそっと柳の身体を横にしてその場を離れた。
自分の頬が熱を持っていること、胸の鼓動が早くなっていることに気づいた真一は部屋を出たところで、しゃがみこんだ。そして大きなため息をつく。
薄々気がついていたことなのだ。
ただ自分の理性が、常識がそれを許さなかった。許してしまうときっと戻れなくなる。だから気づかないようにしていたのに。先ほどの柳の微笑んだ顔を見た瞬間、それは確証となり、自分の気持ちをいまさら否定できなくなった。
そして自分を『イズミ』と呼ばれたその時の激しい落胆。
(俺は、柳さんが好きなんだ)
それと同時に分かってしまったこと。柳と『イズミ』の関係だ。きっと二人は恋人同士だ。何故彼が今いないのかは分からないけれど、柳の中にはまだ『イズミ』がいる。自分の入る余地など初めからないのだ。
頭を抱えた真一はその場から長い間、動けなかった。
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