梅雨明けのメモ

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「さて、と」  階段を下りきった私はコップにお茶を入れておばさんに渡す。 「あら、ありがとう」 「お待たせしました。話してもらえますか? あなたの悩み事を」  おばさんは少し驚いた様子を見せたけれどすぐに冷静に質問を返してきた。 「ええ、それは構わないけれど、その前にどうして私がここに来た理由が悩み事だと思ったの?」  なんて綺麗な空気を作る人だろう。 「そうですね。人に考えを説明するのは少し苦手なんですが……。まず一つ質問があります。うちの店の前に停まっている黒い車はあなたの車ですよね?」 「ええ、そうよ」  私の出した当たり前の質問におばさんは優しく答えた。 「さっき――詳しく言えば三十分ほど前、私はあの車が商店街に続く道をかなりの速度で横切るのを見ました。そのことから何か急いだ用事があるのは分かりました。さらに、私が商店街で買い物をして帰ってきた時にその車が店の前に停まっているのを見て疑問を持ちました。私が車を見た道からここまで歩いても五分程度の距離です。それをあの速度で向かうのならばすぐでしょう。ではあの高級車に乗っている様な人がこんなしがない下町の本屋で約三十分も何をしていたのか、ただ本を買いに来ただけならばあんな速度で車を走らせる必要もないし、父に探している本があるかを聞けばそんなに長居する必要もないでしょう。これを考えて、ここに来た理由は本を買いに来たわけではないということが分かりました」 「……」  おばさんは静かに、穏やかに私の説明を聞いている。 「そして私が店に入った時のあなたの言葉でわかりました」 「あなたがお店に入った時の私の言葉?」 「はい、あなたは――もう聞きたいことは聞いたから帰る――と言っていました。三十分間も質問をして聞きたいこと、知りたいこと、それも本屋でともなれば選択肢は狭まります。あとは、机の上に置いてある沢山の本ですね。横に置いてあるあの空箱は先日うちに持ち込まれた本が入っていたものです。おそらく査定のために持ち込んだ本の中に大切な何かが紛れ込んでしまったのではないでしょうか。合ってますか? 美輪さん」  話し終えた私をおばさん――美輪さんがゆっくりと見る。 「ええ、合ってるわ。すごいのねあなた、何も言っていないのにそこまでわかるなんて」  美輪さんは素直に関心した様子で私を見た。 「疑問には理由が、状況には過程がありますから」 「なるほど」  美輪さんはくすくすと笑っている。  そして、まだ笑いを少し口元に残しながら話し始めた。 「ええ、あなたの言った通り私は探し物をしに来たわ。この間査定を頼むために持ってきた本の中に大切な手帳が入っているかもしれないの」 「手帳――ですか」 「ええ、そう思って来たのだけど……」  美輪さんは、今まで静かに話を聞きながら置物のようになっていた父に視線を向けた。 「あ、ああそうなんだよ。私が今日査定をしていたんだが、そういった類のメモや手帳なんかは入ってなかったよ。まあまだ全部を査定し終わったわけではないんだけどね」  なるほど。多分残りの本を査定してから連絡するということで話がまとまったんだろう。  ここで私は知っておかなければならない疑問をぶつけた。 「それで、そのメモというのは何が書いてあるんですか?」 「夫の――金庫のナンバーが書いてあるの」  美輪さんは少し申し訳なさそうに私たちの顔をうかがいながら言った。
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