プロローグ

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 ――こんなんじゃ、音楽大学なんて夢のまた夢だ。  家に帰った足で、翼はピアノ部屋へ向かった。今さらこんなことをしても無意味なのは知っていたけれど、かれこれ十回以上も経験したこの悔しさを消化させる方法を、翼はこれ以外に知らなかった。  今日、コンクールで弾いた曲を再び奏でていく。 『ベートーヴェン ピアノソナタ第14番・月光第3楽章』  今の自分にとってハードルが高すぎる選曲なのは分かっていた。だけど、こうでもしないと自分の殻を破れないような気がしたからこの曲を選んだ。  結果として、自分のピアノのレベルは上がったと思う。けれど、それも「少し」の話だ。何かが圧倒的に足りない。その「何か」が何なのか分からなくてあちこち探してみるけれど、どこにも何もない。布石(ふせき)すら見当たらない。そんな真っ暗闇の隘路(あいろ)の中に、翼は立っている。  ピアノと再度向き合い、『月光第3楽章』を弾き込んでいく。体が覚えている感覚のまま、何かが足りないまま。  何度も何度も弾き続けた。指が()ってしまいそうになっても、腱鞘炎(けんしょうえん)になりそうでも、なりふり構わず弾き続けた。  ピアノで生活しようと思い立ったのは、高校に入学してすぐだった。ごく普通のサラリーマンの父と専業主婦の母を両親に持ったごく普通の家庭だったから、そういう誰も知らない未知の世界への憧憬(しょうけい)のようなものを抱いたのかもしれない。とにかく高校に入学したとほぼ同時期に、翼は「ピアニスト」という将来像を見据えた。  そのためには音楽大学へ行かなければならない。その前段階として、コンクールで入賞などの実力の証を残さなければならない。そのために、翼はいろんなものを犠牲にして自分を研磨してきた。  けれど、いまいち腕が振るわない。どれだけ自分の中で完璧だと思う演奏をしても、周りはそのさらに数段階上を行っている。どれだけしがみつこうとしても振り払われてしまう。  まるで、自分は必要ないと言われているようだ。  そんな雑念が頭を(よぎ)ったとほぼ同時だった。それまで滑らかに動いてくれていた指が、黒鍵の壁にぶつかって指がつっかえた。それをきっかけに、なんとか形成できていた音楽が作り出す世界が崩れていった。 「……っ!」  体が拒否反応を起こしたように指が鍵盤からパッと離れた。指が小刻みに震えている。知らない間に全身に力がこもってしまっていたようで、呼吸も少し荒かった。
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