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落ち着け。自分に言い聞かせるように深呼吸を三度繰り返す。
「…………」
翼はそっとピアノ部屋を離れた。このまま弾き続けて生活に支障をきたしてしまっては本末転倒だ。ピアニストに関わらず体が資本なのは誰も彼も変わらない。
風呂に入った後、翼は何も考えないまますぐさま自分の部屋のベッドで眠った。
翌週の水曜日。その昼休み。
「おーい、翼~」
廊下を歩いていた翼を呼び止めたのは、中学からの仲が続いている有馬良平だった。翼は「リョウ」と呼んでいる。
「どうしたの?」
「いや、たまには翼も教室で飯食わねえのかなって思ってさ。いつも一人で音楽室行ってて、退屈じゃねえの?」
「大丈夫だよ、音楽室の空気が好きだから」
「なんだそれ、変わってんな」
「リョウだって人のこと言えないでしょ」
「確かに」
二人で軽く笑う。趣味も性格も真反対の二人がどうしてこんなに馬が合うのかは誰にも分からない。きっと、良平の人柄の良さが翼にとって心地よかったとか、それくらいの理由だろう。
その場で良平と別れた翼は、その足のまま音楽室へ向かう。何てことはない、いつものことだ。この学校に合唱部は無いし、吹奏楽部はそれ専用の活動場所がある。それ故に授業以外では使われることが無いから、翼にとってはユートピアのような場所なのだ。
階段で三階までたどり着いた時、翼の耳に不思議な音が割り込んできた。
「……?」
誰かの歌声だった。それも、女声。それに、この曲は……。
翼自身、よく聞いている曲だからすぐに分かった。スピッツの「スカーレット」だ。今時の高校生でスピッツが好きというのも変わっているが、何十年も前の「スカーレット」が好きというのもまた珍しい。
その歌声に誘われるように、翼の足は三階のさらに上の階、つまりは四階の音楽室に向かって進んでいた。近づく度、そのピンと張った糸のような歌声は大きくなっていく。繊細で、芯があって、だけどそれでいてどこか優しい声。
翼の足は勝手に早くなっていた。少しでも早く先へ進もうとしている。もっとこの声を聞きたい、もっと歌っていてほしいと思っていたくらいだ。
誰かいるのはとっくに分かっていたけれど、その誰かが誰なのか、こんなに人の心を揺さぶる声を持つのが誰なのか、ただ純粋に気になった。それだけで翼の体は動いていた。
翼は四階に着くや否や、乱暴なくらいに音楽室の扉を開けた。
そこには、少女がいた――。
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