第6章 すれちがうふたり

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 調子に乗って熱く語りすぎてしまった。    大学の専攻がドイツ語で、グリム童話を原語で読む講義をきっかけに、ドイツ語よりも世界の民話・神話に興味を持つようになって、そういう内容の講義ばかりを好んでとっていた。  時任さんが笑顔でうんうんと相槌を打ってくれるものだから、まるであの頃に戻ったように楽しくて、業務中にもかかわらずしゃべりすぎてしまった……。    しかもそのあと別件で時任さんと言い争いになって、気付けばもう昼って、何やってるんだろう。 「ねえ、ここの環境改善のために『業務改善提案書』出してみない?」  時任さんの唐突な申し出に「は?」と言って固まってしまった。  そんな反応をしたために、わたしが社員が職場環境や業務の改善を求めるそういうシステムがあることを知らないと思ったのか、時任さんが「業務改善提案書とは…」と説明しはじめるのを制して、「いや、知ってますから」と言った。  先日の停電を受けて、倉庫に非常灯をつけることと、倉庫にも非常電源が入るようにシステムを変えることを提案したいのだという。  それだけでなく、文書の処理に関しても、業者に丸投げしたほうがお得なのではと提案したいらしい。  提案書は年中いつでも募集されている。  わたしが入社する前から存在する制度で、匿名性が高く、人事部のあるフロアの外に置かれているボックスに入れておけば、その1枚1枚に必ず社長が目を通すという触れ込みでスタートした制度らしい。  四半期に一度、社員各々のマイページからアクセスできる社内限定のページで提案内容とその回答をまとめた一覧が閲覧できるようになっている。  クスっと笑える社員食堂のメニューに関する要望や、会社のマスコットキャラクターに関することから、とっても真面目で難しい業務内容に関することまで、内容は多岐にわたっていて、読むだけで参考になることも多い。  無記名でいいため、誰と誰が不倫しているとかいう、ただの「言いつけ」だったり、逆恨みの怪文書だったりするものも多数あるという噂で、そういった類のものはもちろん発表される一覧には載っていない。  ただ、いくら「匿名性が高い」「無記名」といっても、内容を見ればどの部署の誰からの提案なのか、わかってしまうことも多いのだ。    わたしも、非常灯のことや文書の処分のことに関しては、実はとっくに提出済だった。  しかし、その要望はいつまでたっても一覧に載ることはなかった。 『地下2階の文書倉庫の——』と書けば、それは当然、倉庫にいる社員からの提案だとバレてしまう。  触れ込み通り、社長も目を通してくれたんだろうか。  それともどこかで握りつぶされてしまったんだろうか。 「まず君の、その罪を認めない態度を改善したほうがいいと思うよ」  定期的な人事部との面談でそう言われた時、心底がっかりした。    あの時の悔しさを思い出して、つい時任さんにもきつく当たってしまった。 「やめてください、無駄です」 「試しに出すぐらいいいだろう?」 「倉庫係からの要望だとバレバレです。わたしが提出したとバレたらいろいろ面倒なんです」  食い下がる時任さんにそう言うと、彼はプッと笑った。 「あきらパイセン、自意識過剰だよ。たしかに一部の人には有名っぽいけどさあ、俺、小野あきらさんて名前、倉庫(ここ)に来るまで知らなかったぜ?」 「もうっ、人の気も知らないで何が自意識過剰ですか!とにかく絶対にイヤっ!」  わたしたちの言い争いはお互いに歩み寄ることなく、時任さんが空腹を感じるまで続いた。 「俺、メシ食ってくるわ」   ため息をつきながらそう言った時任さんに、いつものように「いってらっしゃい」とは言わず、無言のままその広い背中を見送った。  デスクでお弁当を広げて食べていると、電話が鳴った。  口の中のおにぎりを慌てて飲み込んで受話器を取り上げた。 「はい、倉庫管理係です」  電話をかけてきたのは財務部の北川さんだった。
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