第6章 すれちがうふたり

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「あきらちゃん?財務の北川です」  受話器の向こうから聞こえる声に、ここ最近よく会うようになった北川さんの整った顔を思い浮かべながら「お疲れ様です」と挨拶した。 「時任さんならいまお昼休憩中で不在で…」  てっきり時任さんに用事があるのだと思って尋ねられる前にそう言うのを、北川さんが遮った。 「ちがうよ、時任じゃなくてあきらちゃんにかけたんだ。今夜先約がなければ俺と食事しない?停電のときのお礼してくれる約束だったよね」   先日の停電騒動で、営業の西沢さんとともに助けに来てくれたことはまだ記憶に新しい。  あの日の帰り際にふたりにお礼を言ったときに、たしかに北川さんから「じゃあ今度メシおごって」と言われたのだけれど、ただの社交辞令だと思っていた。  まあそれでも、お礼はしたほうがいいし…でもいきなり今日そんなことになるとは思わず、一人暮らしのアパートの炊飯器は20時に炊き上がるように予約セット済なんですけど……と考えているうちに、たぶん数秒間黙り込んでいた気がする。 「あきらちゃん?今日何か用事があるなら明日でもいいけど?」 「いえ、今夜にしましょう。炊飯器のタイマーをセット済だからどうしようと思っただけですのでご心配なく」  北川さんが受話器の向こうでふふっと笑っている。  先延ばしにするとなんだか落ち着かなくなりそうだから、勢いで今日済ませてしまったほうがいいと判断した。 「少し残業しないといけないから、19時でもいい?倉庫まで迎えに行くね」 「はい、お待ちしております。失礼します」  ふうっと息をついて受話器を置いた。  午後の業務時間中は、午前中とは打って変わり、時任さんとほぼ言葉を交わさなかった。  わたしはいつものように文書の整理をして、時任さんが何の作業をしていたのかは知らない。  業務終了時刻になると、時任さんが棚の影からひょこっと顔を出して、棚に上げる箱はあるかと聞いてきた。  こういう気まずい状況でもその確認を怠らないのが、時任さんのいい所だと思う。  内心とても感謝しながら「ありません」とだけ答えた。 「あきらパイセン、今日、なんかごめんね。お疲れ様。また明日」  返事をしようとしたときにはもうドアの開閉音が聞こえて、「こちらこそ申し訳ありませんでした」と言いそびれてしまった。  感情的に「無駄!」「イヤ!」ではなくて、もっときちんと説明すればよかったかな…と、ちょっぴり後悔した。  北川さんは、19時を少し過ぎた頃にやって来た。 「おまたせ」とにこやかに言われて、「お疲れ様です」と言って頭を下げた。  気の利いたことが何も言えない自分が少し恥ずかしかったけれど、これ以上妙に気に入られても困るから不愛想なぐらいでちょうどいい。  本社ビルを出ると、むわんという夏の熱気に包まれた。  梅雨が明けて一気に夏が来たかんじだ。  わたしがキョロキョロしているのを見て、北川さんがどうしたの?と聞いてきた。 「いや、あの、西沢さんはいらっしゃらないのかと」 「え?西沢?」 「停電のお礼ということだったので、西沢さんも一緒……ではないってことですか?」 「うん。あきらちゃんと俺のふたりっきり。お礼って言ったのは、あきらちゃんをOKさせるための口実」  北川さんは、そう言ってにこやかに笑った。
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