第8章 幸せな時間の終わり

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 幸せな偽りの時間が終わりを告げて、悲しい別離が待っている。  そんな話を時任さんにしたのは先週のことだっただろうか。  あれは何かの暗示だったのかと思うほどのタイミングで、時任さんが営業部に戻ることになった。  ここに「島流し」になった人たちみんなが退職していくわけではない。  ここへ来た理由にもよるけれど、本人が反省する態度を見せていたり、誤解が解けたりして元の部署に戻っていく社員もいる。  「女子社員に暴力を振るった」という理由でここへ来た時任さんもきっと、暴力ではなかったのだと認められたのだろう。  それなら、よかった。  だから素直に「おめでとうございます」と言えた。 「俺さ、また営業で外回りが増えるからすぐには駆け付けられないかもしれないけど、棚に重たい箱を上げたいときは呼んで。あと、9月末で期限切れになる箱の処分も一緒に行くから。絶対約束するから。だから…」  いつもより早口で前のめりにそんなことを言う時任さんの言葉を途中で遮った。  時任さんは、もともと倉庫(ここ)へ来るような人ではなかったのだから。  だからもう忘れてくれていい。  倉庫のことも、わたしのことも。  一緒に処分場に行ったことも、わたしが語る『かえるの王子様』の話を楽しそうに聞いてくれたことも、『業務改善提案書』をめぐってケンカしたことも、停電したあのときに優しく抱きしめてくれたことも、時任さんの家でキスしたことも――。    全部、ひと夏の夢だったのだと思ってください。 「心機一転、営業部で精いっぱい頑張ってください。もうここに戻って来てはいけませんよ」  上手く笑えて言えただろうか。  この2年間で何度となく体験した倉庫(ここ)での出会いと別れの中で、時任さんとのお別れは断トツに辛い。  9月末で退職するつもりだと言っておきながら、まさか自分のほうが置いて行かれるとは思っていなかったからか?と自嘲気味に自問自答する。  わたしにとっても、ひと夏の思い出だったんだ。    荷物を片付ける時任さんのそばにいるのが辛くて、いつもと同じく奥で書類の整理をしていた。  全くはかどってはいなかったのだけれど。 「じゃあ、俺そろそろ行くわ」と聞こえて、ついにお別れの時がきたかと覚悟を決めてお見送りをした。 「どうぞお元気で。お世話になりました」  ドアの前で頭を下げると、停電になったときは北川さんたちとともに助けに来てくれると言われ、それは助かると思ってふふっと笑った。  そのときだった。  時任さんの手が伸びてきたと思ったら、急に時任さんの顔が近づいてきた。  そして、唇にやわらかいものが触れて、ちゅっという音とともにすぐ離れた。 「あきらにかかった魔法が早く解けますように」  時任さんはそう言い残して、驚いて固まるわたしを残して行ってしまった。  ずるい。  時任さんはずるい。  もう出し尽くしたと思っていた涙があふれて止まらなかった。  
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