第9章 悪い魔女の正体

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 去り際にあんなキスをしておいて、時任さんからはそれっきり何もなかった。    営業マンとして、きっと忙しく走り回っているのだろう。  時任さんにはそれがお似合いだ。    忘れてくれればいいと思う一方で、わたしは何を期待していたんだろう…。  8月末に、総務課の田所課長に辞表を提出した。  会社の職務規定に「退職希望日の1ヶ月前までに退職の意思表示をすること」とあるためだ。  退職理由はひとこと「一身上の都合により」とだけ書いた。  田所課長はそれに目を落とし、「はい、わかりました」と言っただけだった。  ひとりぼっちの日常が戻り、9月に入ると書類の整理もデータ入力もほぼ終わって残業も不要になった。  退職までに貯まっていた有給休暇を消化しようと思い立って、頻繁に休んで就職活動を始めた。  倉庫の扉の電気錠はICチップを埋め込んだ社員証があれば誰でも開く仕組みになっている。  有給休暇中に北川さんが何度か来たらしく、その都度メモが残されていた。 『連絡ください 北川』の下に電話番号やメアドが書かれていたけれど、一度も連絡はとらなかった。  9月いっぱいで退職するつもりだと言ったことを覚えていて頻繁に様子を見に来ているんだろうか。時任さんのいないこの状況では、なんとなく北川さんとは会いたくなくて、すれ違いが続いていることに内心ホッとしていた。  退職の日には久しぶりにメガネではなくコンタクトレンズで出社した。  ダボダボの服もやめて今日は体に合ったスカートとジャケットで。  ずっと伸ばしっぱなしだった髪も、さっぱり切ってカラーリングもした。  久しぶりに短くしたら頭がとっても軽くて、自然と笑みがこぼれた。  挨拶で訪れた総務部では、みんなが「誰?」という顔をしてポカーンとしているのがおかしくて、わたしは胸のすく思いで終始笑っていた。  円満退職の場合、普通はあちこちに挨拶回りに行って、行く先々で話に花が咲いて、最後に所属部署のフロアのみなさんの前で挨拶をして花束をもらうというのがお約束だけれど、もちろんわたしにはそれは行われない。    次に人事部に行って退職の手続きをした。  いくつかの書類を書き終えて説明を聞いた後、社員証の返却を求められたが、今ここで渡してしまうと倉庫に入れなくなるため、最後に出るときに倉庫のデスクの上に置いておくと約束した。  そして、さあ一旦倉庫へ戻ろうと人事部のフロアを出たところで「小野さん」と呼び止められた。  振り返ると……誰ですか?社員証によれば、森田さん?  あぁ、もしかして、ICレコーダーのことを時任さんに話したとかいう、おしゃべりな人ですね? 「何か?」 「少し伺いたいことがあります。こちらへ」  そう言って有無を言わさず会議室へと入ってしまうから、仕方なくわたしも中に入った。 「2年前の伝票の件です。最後にもう一度確認させてください。あれは、あなたが作ったんですよね?」 「ちがいます」  わたしは初めて、あの伝票をわたしが作ったのでなければ誰が作った可能性が高いか、誰がどんな嘘をついたかについて自分が記憶している限りのことを話した。  それを聞き終えた森田さんは 「どうしてそれ今まで言わなかったんです?」と首を傾げた。 「『なんてことしてくれたんだ』って怒鳴り散らして、端からわたしを犯人だと決めつけて聞く耳を持たなかったのはそちらでしょう?わたしが一貫して、身に覚えがないと言い続けていたことは森田さんもご存知ですよね?それに、どうせこれもまたおもしろおかしく脚色して言いふらすんでしょう?レコーダーの件みたいに」  わたしの嫌味に対して森田さんのこめかみがピクっと動くのが見えた。 「ではこれで失礼します。同期のみなさんによろしく」  わたしはわざと馬鹿丁寧に深々と頭を下げて会議室を出た。  森田さんとの話は30分ほどで終わり、やっと倉庫に戻ったのが10時半……することもないし、ここにいたら北川さんが来そうだし、もう帰ろうか。  その前にわたしはデスクの上の受話器を上げた。 「総務課倉庫管理係の小野と申します。お疲れ様です。時任さんはご在席でしょうか」  最後にもう一度だけ声が聞きたい…そう思ったけれど、残念ながら時任さんはいなかった。  伝言はあるかと聞かれ、では電話があったことだけお伝えくださいと言って受話器を置いた。  ひとつ小さなため息をついて、立ち上がる。  2年4ヶ月過ごした空間をぐるっと見渡して「ありがとう。さようなら」とつぶやいて倉庫に別れを告げた。   
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