プロローグ

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プロローグ

「恋の本当の意味って、知ってる?」  サングラスをかけて、ブラウンを基調としたカントリー系のアシンメトリーなワンピースを着た十六歳の少女は、ベンチに腰かけて読書に夢中だった。それが、急に話しかけられたので、びっくりして顔を上げた。 「え?」  日曜の昼下がり。  緑豊かな小金川公園は、抜けるような青空の下で、読書日和だった。しかし、珍しくも一人の少年によって邪魔されたのだ。  驚きながらも少女は読書を止めた。  樹木の隙間からこぼれ落ちる日差しが、淡く眩しく少年の顔を照らす。少年は、赤と黒のチェックの半袖シャツに、デニムのハーフパンツをはいていた。  少年は、迷わずに話し続ける。 「僕ね、恋は心の操り人形だと思うんだ」 「あ、あの……」  警戒心に身を震わせながら、少女は読みかけの本を閉じて、少年に目を向けた。  小柄な少年は、見た目から察するに、少女と同じぐらいの年齢だった。視線をはずさずに、じっと深い瞳で二人は見つめ合う。 「なぜならね」 「は、はあ」 「どんなに好きだったとしても。僕の想いは関係ないから」 「……そう、ですか?」 「僕の気持ちじゃなくて。決定権はキミにあるんだ。キミにどこまでも操られる、人形になること。それが恋だ」 「え、私……」 「恋は、誰もがおとずれる魔境だ。誰も逃れられない。そう、誰もね」 「あ、その」 「キミにもきっと魔境が訪れる。毒リンゴを食べるように。魔女の惚れ薬を飲まされたように。キミは狂い、そして苦しむ」 「そ、そ、そんな……」 「その日まで、ぐっすり眠れ。森の中で。……次に目を覚ますとき、キミは僕の人形だ」  それだけ言うと、少年は足早に去っていった。 「あ、あの。ちょっと待って下さい」  読書少女は、すかさず追いかけた。  しかし、少年は早い。  コスモス畑にいたと思ったら、あっという間にアスレチックフィールドにまで走り、木の階段を上り上がり、スピードを落とさないでつり橋を渡っていく。  少女は右足のサンダルが脱げた。 「ああ、もう」  目をやると、もう少年の姿はどこにもない。  アスレチックフィールドで遊んでいる家族や子供、学生、カップルが、単なる風景に見えた。  サンダルを拾い、はきながら、今起きたことを振り返る。  少女は、先ほどのベンチに戻りながら歩く。  本を抱えて、続きを読みたいのだが……。 「ど……どうしよう。私」  本を読もうとする気力が、まるで湧かない。  顔を赤らめた少女は、ただ茫然と立ち尽くしていた。  少女は異変を感じた。  自分の中に、新しい何かが動きだす。  今までと違う血流が流れる。  自分の中に、違う自分がいる。  知らない感情が混入する。 「ちょ、これは……!」  少女は本を芝生に落とした。  拾わないまま、必死に両手で胸をおさえる。  ……心臓をかきむしるように。  ……胸の奥にある心を、わしづかみにするように。  呼吸は大いに乱れた。  酸素不足に陥ってしまうのではないかというほどに、激しく息を吸い、吐いて、そして吐いた。  しかし、こればかりはどうしようもなく。  苦渋の色を浮かべた少女は、額に汗をかいた。  腕に、足にも。  背中も、腰も、汗でびっしょりだった。 「あ、ああ……苦しい。私、おかしくなってしまいそう」  弱々しく、一人つぶやく。  少女は腕を、だらんとさせた。  そのまま少女はひざをつく。  風で押されるように、芝生にゆっくりと倒れた。  両腕、両足を大の字に広げて、うつぶせになり、目を閉じる。 「う、うう……」  動かない。  動けない。  しばらくは、温かい午後の日差しに見つめられた。  時折、生ぬるい風が少女の上を横切っていく。  幸か不幸か、誰も通らない。  いや、近くを通る人もいるのだが、ちょっと視界に入るだけでは、芝生で寝転んで遊んでいるだけにしか見えなかった。  少女は、目をカッと見開いた。  狂ったように、声が止まらない。 「ふ、ははは。……ははは、あはははははは!」  芝生に寝転がりながら笑い続ける。  生まれたてのゾンビのように、足元をふらふらさせながら立ち上がった少女は、身体中が火照っていた。  暑い。  熱い。  特に顔が熱かった。  先ほどの純粋そうな瞳はどこにもにない。  少女は、ずり落ちたサングラスを掛け直す。  目は虚ろで、色っぽくて、どこか堕落の輝きもあった。  視線の先には、何も見えていない。  公園の樹木なんて存在しない。  緑の豊かさなんて、どうでもいい。  芝生の綺麗さは、サンダルで踏みにじるためにある。    少女の目に見えるのは、……そう。    少女は身体についた芝生をはたき落とした。  そして、本を拾った。  本を抱えて、どこかへと歩いていく。  芝生のスペースを出て、アスファルトの道に出た。  樹木の枝や葉の隙間から見え隠れする心地よい日差しを無視して、そのまましばらく歩き続ける。  アスレチックフィールドを過ぎて。  バーベキューフィールドを横切っていき。  足を止めたのは、金網のゴミ入れだった。  少女は今まで読んでいた本を、ためらうことなく投げ捨てた。 「これで良し……と」  少女は妖しく微笑んだ。  先ほどまで、日曜の午後を静かに過ごしていた読書少女とは思えない。  少女は、この上なく清々しい気分に満ち溢れていた。  それから一年後……運命は満ちる。
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