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  謎の建物の一室。目を覚ますと、俺は両手首が手錠でつながれて、寝台に横たわっていた。目を開けたものの、何も出来ない。 「ようやく目が覚めたみたいね。青い権謀術数は、恋愛破壊者の迷い道。秘密結社、デッドラバースへようこそ」  ドアが開いた音がしたと思ったら、黒髪に赤のメッシュ入りの少女が入ってきた。   メイリー。いや、メイリーという偽名を使っていた、謎の女。寝転がったままでは見づらいが、青いシャツに黒いスラックスを着ていた。どうやら、これがデッドラバースとやらのユニフォームらしい。 「あっさり騙されるんだもん」 「くそ。確かに騙されはしたけど。少なくとも俺は、心を許した覚えはないからな」 「強がらないで大丈夫。恋愛とは、ウェーブよ。最初は感情の小さな揺らぎ。さざ波だと思って遊んでいたら、気がつくと津波になってて、もう手遅れ。恋に溺れるのは、まぬがれないことなのよ」  メイリーはジッポライターで火をつけると、タバコを吸い始めた。 「私はラブラブアイスに紛れ込んだ、恋愛テロリスト」 「そんなことだろうと思ったよ。会った時から、なんか変な気がしたんだ」 「でも結局、見破れなかったじゃない」 「うう……、それは」 「あなたとは別れたことにして。ラブラブアイスには、また新しい人を斡旋してもらわないと。あの組織、便利だわ」 「くそ! 片桐の言葉を信用した俺がバカだった……」  思わず俺は、身体をバタバタさせた。しかし、身体は拘束されているため、全く意味がない。 「あなたが休んでいる間、いろいろと調べさせてもらったから」 「何を?」  タバコを吸いながらメイリーは、メモを読み上げ出した。 「体重六十五キロ、身長百七十三センチ、血液型はAB型、血糖値は普通、コレステロールは、、」   ハッとして、右腕を見る。そうか、白いパッチがついているのは、血液検査のあとか。 「これらの情報をもとに、さらに精密な恋愛検査をさせてもらうわ」 「や、やめろ!」  タバコを吸い終えたメイリーは、あちこちと、俺の身体になにやらいろいろな器具を付け始めた。手の平には、電極のようなものがテープで貼り付く。足も似たような感じだ。頭には、なにやらヘルメットのようなものをかぶせられ、電気コードが何本もついている。おなかの辺りには、大きな白い布みたいなやつを、手際よくマジックテープで巻きつけられた。 「あなたには、今から恋愛モルモットになってもらうからね」 「人体実験でもするのか?」 「たくさん、データを取ってあげる。お楽しみに」  そう言うと、メイリーは部屋を出た。  しばらくすると、あまりにも意外な人が部屋に入ってきた。清楚なポニーテールに、きゃしゃで、なよなよとした女性。スカートの丈も長い、いまいち覇気がない女の子は、ペコリと俺にお辞儀をした。 「どうも、こんにちは」 「聖人じゃなかったんだな」 「裏も表も知りつくしているのが、聖人ですよ。奥原さんは、恋愛の肯定面しか見ないから、そう思っているだけです」   恋愛聖人の町村かなだ。無表情に、淡々と話す姿は、闇に染まった聖人そのものだった。 「お前もか」 「はい」 「恋愛王者は、どいつもこいつもデッドラバースだったわけか」 「組織票で誰がなるのか、ほぼ毎回決まっていますよ。恋愛王者とは、学校裏社会の独裁者。恋愛王者になることで、意見力が上がり、まわりは私たちに従うようになる。すなわち、恋愛に関する洗脳が進むのです。こうして、私達の組織の仲間を増やして行くのですよ」 「片桐と内中も、デッドラバース?」 「それは違います。本当はあと2人、別の人を当選させるはずだったのですが……まあ、別に良いです。推測ですが、あの二人はおそらく、ラブラブアイスの組織票で恋愛王者になったと思われます」  二人の顔を思い浮かべながら、俺の友達が闇の存在でなかったことに、心から安心した。 「さてと。今から、いろいろと調べさせてもらいますからね。この実験では、衝撃を与えられた瞬間の女性への感情の動きを調査します」  そう言うと、町村は、トランシーバーを出した。 「はい。今からスタートさせてください。はい、大丈夫です。全て、電極も正しくセットしましたので」  1分後、辺りは暗くなった。そして、映画のように、映写機のようなもので、壁に何か画像が映った。それは、女性の写真だった。数秒おきに、コマ送りにいろいろな画像が映る。女子高生だったり、アイドルだったり。 「何が、したいんだ……?」  と、その瞬間。全身に激しい衝撃が走った。 「い、いてえーーーーー!」   電気ショックだった。あまりの痛さに俺がうずくまっていると、また再びいろいろな画像の女性が壁に映し出された。   そして、へえこういう女性か、とか思っていると、また電気ショック。   再び女性の画像。   電気ショック。   その繰り返しだった。  10分後、ようやく俺の身体中につけられた仕掛けは、すべて無事にはずされたのだった。    その次に町村に案内された部屋には、ゲーセンとかに置いてある典型的なモグラ叩きがあった。 「今からルールを説明します」 「いいよ、別にしなくても」 「いいから私の説明を聞けば良いんです。……ルールは簡単。開始したあとは、とにもかくにも、モグラをひたすら叩いて高得点をねらうこと。以上」  高らかな電子音とともに、ゲームは始まった。  モグラを叩こうと、ハンマーをふりかぶった瞬間。 「ああ!」  なんと、モグラの顔に、それぞれ女性の顔写真というか、上半身の写真が貼ってあるではないか。おかま、ゴスロリ、女子高生、モーターショーとかにいそうなグラマーな感じの人、コスプレ、等。  さすがの俺も、叩くのに気が引けた。いくら写真とはいえ、女性に手を挙げているみたいだ。  ハンマーを置こうとすると、いきなり頭をぶんなぐられた。 「痛い!」  勢い良く叩かれた衝撃で、思わず俺はハンマーを足元に落とした。 「ふざけないで下さい」 「ふざけてんのはどっちだよ」  町村はかなり不服そうな顔。   拘束中で立場のない俺は、従う他なく。結局、再スタートとなった。  俺は、今度こそ容赦なく、女の子の顔写真がついたモグラをガンガンに叩きまくる。叩いた女性の写真は、徐々にやぶれたり、しわができたりしている。  町村はバインダーではさんだ紙に、写真別に叩いた回数を『正』の字でメモしているようだった。おそらく、さまざまな種類の女の子の写真を叩いた回数を集計して、女の子の好みを探っているのか。 「うーん。どういうわけか、おかまの写真を叩いた回数が少ないですね。まさか、奥原さん。そういう好みですか」 「そんなわけあるかよ! はじっこだから、叩きにくかっただけだ」 「わかりました。そういうことにしといてあげますよ。でも、我々のデータの中では、真実が残ります」  破れたおかまの写真を見ながら、間違ったデータを残すのも一つの手かもしれないと思った。    次の部屋では、なにやらバンドのようなものを腕に巻かれた。そして、そのバンドは医療用の機器につながっていた。心拍数でも調べるのか?  淡々と町村が説明した。 「この試験ではですね、まず女性の身体からサンプリングして作った、香水をかいでもらいます。そして、脈拍数を調査して、どういう香りの女性だと男性に刺激を与えるかを調べさせて頂きますね」  町村は、俺の鼻に小瓶を近づけた。  これは、バニラエッセンスの匂いか。  匂いタイムが終わると、町村は小瓶をテーブルに置き、なにやらメモしているようだった。  香水と香水の間に、ミントの香りを嗅がされた。前の余韻を消すためだろうか。  そのあとは、新緑の匂い、とにかく嫌なにおい、謎の刺激的な匂い……。   やたらと、いろんな種類の香水をかがされた。 「試験の結果、あなたはワニのメスから採集した、フェロモン入りの香水が一番脈が上がりました。なるほど。肉食系が好みですね」  俺は無言のまま、無表情の聖人を見つめた。  次の部屋では、パッと見でさまざまな遊び道具というか、学校にありそうなものがあった。綱渡り、ブランコ、滑り台、縄跳び、砲丸投げ、槍、竹刀、バットと硬式ボール、グローブ、フラフープ、一輪車、鉄棒、跳び箱、バスケットボール、バレーボール、サッカーボール、テニスのラケットとボール、ハンドボール、ソフトボール、バトン、たすき、ハードル、フェンシングの道具、絵画セット、お料理セット、バーベル、ローラースケート、スケボー等。徒競走用の白線も引いてある。  町村は、置いてある道具や器具を一通り確認している。手慣れたものだ。 「運動神経テストを行ないます」 「やるから。早く解放しろよ」  最初は滑り台だ。落ちないように、ゆっくりと金属棒の階段を足で踏みつけ、登っていく。 「キャー、頑張ってー!!」  上まで登った瞬間、どこからともなく女の子の声援が聞こえ、ビクッとした。  恐る恐る、普通に滑った。  次は縄跳びだ。縄を両手で持ち、構えると。 「素敵。縄跳びが得意な男性って、私超好みー!」  今度は、低めの声の女の子の声だった。  こんな感じに、さまざまな運動を行なう前に、いろんな声の黄色い女性の声援がきて、運動を行う、それの繰り返しだった。この試験で、何を評価しようというのか……。       次の部屋では、等身大の女子高生のマネキンが置いてあった。かなり精巧に出来ている。遠くから見たら、本物の女子高生と見間違えるほどだ。   町村はマネキンを頭から順に、顔、首、胸、両腕、両手、お腹、背中、腰、両脚、靴。一通り点検を行なった。 「今からですね、反射神経テストを行ないます。体の部位に、スイッチがあり、ランプがついたらそこを押してください。以上」 「何のテスト?」 「女性のどういう部分が好きかを調べるテストです」 「口頭で『どこが好きか』を聞いて、受け答えをしたら、それで終わりだろ」 「それじゃあダメです。あなたがウソをつくかもしれません」   そもそも、女性のどこの部位が好きかとか、一度も考えたことがないのだが……。   俺は従順に、ランプがついたらスイッチを押した。一昔前の売れないゲーセンで、むなしく遊んでいるようだった。   ……その後も、さまざまな試験を行い、一通り終えた俺は、最後の部屋に連れていかれた。そこには、椅子に座ったメイリーがいた。 「ご協力、ありがとう。これで私たちの組織に、新しい恋愛データベースができたわ」 「何だ、それは?」 「どういうタイプの人間が、どういうタイプの異性が好きで、どういう恋愛を好むのか。あらゆるパターンをデータベース化し、最終的に世界中のあらゆる恋愛を裏世界から操作して、すべての恋愛を破壊しつくし、日本や世界を征服する。それが、私たちの組織、デッドラバースの悲願。ふふふ」  くだらないけど、……もし仮に、その恋愛操作とやらが裏世界から実行されたのなら、相当恐ろしい気もする。椅子に腰掛けて、バインダーにつけたデータを眺めるメイリーが不敵に見えた。「そんなもの、警察が阻止するに決まっている」 「あら警察の中にも、うちの工作員はいるよ。学校にも、国会議員の中にも紛れ込んでいるし」 「デッドラバースって、そんなに社会の中に入り込んでいるのか?」 「もちろん。恋愛法を制定したときの富川颯太総理は、デッドラバースの上層部メンバー。あの法律を制定することで、日本中の恋愛をかき乱すことに成功した」 「ええ!? それ、本当かよ!」 「三次元よりも二次元で恋愛する方が楽しいという考えで社会を混乱させた、スーパークローン人工知能の恋愛体験ソフト。あれを開発した、有名なエリックスゲーム会社の社長も、デッドラバースの人間よ」  メイリーは、慣れた手つきで、動けない俺に向かってヘッドギアやさまざまな器具をセットする。 「リクさんが、どうして恋愛嫌いなのか、私が解明してあげる」  自然と身体が震え出した。……思い出したくもない。恐怖と悲しみの入り混じる、記憶に支配された震えだった。 「そんなの、生まれつきに決まっているだろ」  メイリーは、嫌な笑みを浮かべた。 「なるほど。本当かどうか、調べてあげる」 「やめろ!」  怒声を上げたのは、逆効果だった。メイリーの興味に火をつけたようで、注射針の先端を俺に向けた。 「恋愛データベースに、必要な情報なのよ。悪いけど、見せてもらうわ」  麻酔を打たれた俺は、たくさんのコードがついたベッドギアを被せられ、深い眠りに落ちていった。  ……中学二年の頃、付き合っていた女の子がいた。田村華菜という名前で、眼鏡をかけていて、読書好きな子だった。よく読んだ本の感想言い合うのが、楽しかった。しかし、その子は重い病気を患っていた。病気の名前は、結局教えてもらえなかった。  サッカー部の練習が休みの時とか。時間があると、いつも俺は病室に通っていた。そして、行く度に読んだ本の感想を言い合っていた。このまま病気が治らなくても、俺が一生面倒見てやる、ぐらいの気持ちはあった。  昼休みや休み時間に、教室で、図書室で、出来るだけたくさんの本に触れ合う。そして、最も面白かった本を華菜に持っていき、紹介した。リクくんの紹介する本は、いつもシンプルなストーリーのものが多いねと、よく笑われていたな。  そんな中、『紅いバラ姫』という小説に出会った。  ……無口で自閉症気味のお姫様が主人公。いつも人見知りをし、知らない人と話すのが怖くて仕方がなかった。虚飾に満ちた家臣ばかりに囲まれながら育ち、もともとのおとなしい性格もあり、いつしか人間不信に陥ってしまった。一人で散歩ばかりするのが好きだった。この物語はほとんど、お姫様が一人で出歩くシーンばかりだ。  ある日。絶対に入ってはいけない、闇の森に入る。そこで、謎の少年に出会う。闇の森の住人だからというよりは、単に対人恐怖症から、話すのが怖かった。お姫様は逃げだし、走りまくる。しかし、道に迷い、途方に暮れて泣き出す。先ほどの謎の少年に追いつかれ、命の覚悟をした。だが、少年は意外にも優しく、バラの花を一輪、お姫様に渡した。そして、森を出るところまで案内してくれた。  それからというもの、お姫様は時々、少年に会うためにこっそりと、闇の森を訪れた。謎の少年は、会う度にお姫様にバラの花をくれた。お姫様は、それを部屋に飾り、いつもそれを眺めて微笑んでいた。  打ち解けていくうちに、この少年は、森の精霊だと知った。やがて、二人は恋に落ちる。 その頃、闇の森に出入りしているのを世話係にバレてしまう。その情報は王様の耳にも入った。  お姫様は、他の名家に嫁がなくてはならない身。それなのに……王様は、闇の森の住人に騙され、お姫様がたぶらかされたと憤った。そして、怒りにまかせて毒霧を撒く指示を出した。  お姫様は、家臣達が止めるのを振り切り、闇の森に向かって走り出す。  森の前で、少年の服を着た樹木が倒れていた。痛々しく、かなり腐っている。死んだ森の精霊は、もはや人の姿を保つことが出来ないようだ。亡くなった森の精霊の近くに、バラの花が落ちていた。お姫様は、そのバラを手に取った。そして泣き出した。  部屋に戻っても、泣き暮れて……あと数日で、許婚のラフレシオ家の王子と結婚しなくてはならないお姫様。恋した森の精霊は、姫の心を弄んだ邪悪な者として殺された。取り返しのつかない状況となり……どの道、結ばれることが出来ないのなら。ふと見ると、以前に森の少年がくれた、バラの花が花瓶に飾られている。握り締めると、激痛が走り、手の平から血が垂れる。彼が殺された苦しみはこんなもんじゃないと、すべてのバラを抱え込み、腕からもたくさんの血を流す。痛みはすべて、彼への愛情。一滴、一滴が恋の恍惚。血の誓い。……そう、おのれの血が邪魔だった。恋を阻害する血統、血液なんて、ゴミでしかない。すべての血を流しきることで、愛しい人のもとへ旅立つことが出来る。……血だらけになりながらも、殺される苦しみは、これ以上のはずだと思い……窓から身を投げ出す。飛び降りながら、「私、本当に幸せだったよ」とつぶやき、死に絶えていく……。  熱っぽく、俺は何度も「ここまで愛せるのは、すごいよな」と華菜に語りかけていた。華菜も楽しそうに俺の話を聞いてくれたし、「私たちも、命がけで愛し合いたいね」と言ってくれていた。俺は森の精霊に自分をなぞり、時々バラの花を一輪、お見舞いに持ってきた。華菜も喜んでくれて、紅いバラ姫のように、病室に飾っていた。いつの間にか、バラの花だらけになった。  ある日。授業が終わり、部活も休みだったので、本を片手に急いで病室に。その日は、華菜がひどく疲れて見えた。「大丈夫?」と俺が聞くと、「そろそろダメかも」……と、微かな声。  どういう言葉をかけたらいいか、全くわからない。俺は、逃げるように『紅いバラ姫』の再読を勧めた。俺達の愛は、病気なんかに絶対に負けないんだと力説した。  華菜は、ありがとうと言って本を手に取った。筋肉が落ちて、骨が透けて見えてしまいそうな腕だった。  次の日の午前。体育の授業中、俺が知らない間に華菜は息を引き取った。  病死じゃない。華菜は自殺したのだ。……美しいバラの花束を抱えたまま、飛び降り自殺をした。地面に叩きつけられたあとも、大事そうにバラを抱えていたそうだった。  その話を聞いたとき、すべて俺のせいだと悟った。バラの花束を抱えて自殺することで、永遠の愛を誓う『紅いバラ姫』に成り果てたのだ。  まさか、こんなことになるだなんて……。俺が余計な本さえ紹介しなければ、華菜の死期を早めることはなかった。 自殺した時の華菜の気持ちはいかばかりだったか。もはや病は治らないという、底なしの絶望。救いようのない未来を前にして、今の自分を紅いバラ姫に重ねたに違いない。そして、取るべき行動はただ一つ。  ……すぐそばにいたのに、なぜ華菜の本心をわかってやれなかったのだろう。いや、物理的には近かったのかもしれないが。心は別世界だったのだ。日常生活を学校で過ごす俺と、病室の中だけでクローズする少女とでは、そもそも目に見えるものすべてが違っていたのだ。俺が、この本が面白かったと言えば、今日一日。華菜にとっては俺の一言が今日一日のすべてだったのかもしれなかった。それが分からず、無邪気に読んだ本の感想を思うがままに話し続けた俺は、知らない間に自殺への階段を登らせた、偽善者に違いない。俺の恋心が、華菜の背中を窓の外へと押しやったのだった。  ご家族は、俺に対して何も責めなかった。むしろ、今まで何度もお見舞いに来てくれて、ありがとうと、お礼を言ってくれた。それが逆につらかった。俺も、本当の事実を話すことなんて出来ない。身体が動かない。口も動かない。ただ、ひたすら悲しむばかりだった。中学二年生の俺に、ただ冷たい現実だけが叩きつけられた。  昼間の病院で、容態が決して良くない患者が、バラの花束をもってうろうろしていて、誰も気がつかなかったのか。そんな状態で窓に手をかけていて、どうして看護師や周囲の人間は、止めてくれなかったのか。……そんなことばかり考えていた。華菜は、周囲に細心の注意を払い、絶対にバレないように、実行したに違いない。ただ、俺との永遠の愛を、誓う為だけに。  昨日まで会話していた人が、ある日突然、動かなくなる……それも永遠に。現実は、恐ろしいほどに淡々と過ぎていく。心にぽっかりと穴が空いた、なんてもんじゃない。ナイフで抉るように突き刺され、血だらけで、回復の見込みなんてありやしない。ボロボロ過ぎて、何も考えられないし、何もしたくない。俺のことはもう、ほおっておいて欲しい。……ある朝起きたら、生き返ってないかと、何度思ったことか。しかし、現実は何も動かず、心の傷も癒えないまま。  華菜との別れを機に、部活からも自然と足が遠のいた。……いや、すべてがどうでも良くなり、何もかも、自分の未来さえも遠のいていった。  ……久しぶりに思い出した。  治りかけたと思っていた傷口が、再び刃物で切り刻まれた。人は、脆い生き物。いや、俺が脆いんだ。昔あった出来事を思い出しただけで、身体が信じられないぐらいに怯えてしまうのだから。  冷や汗が止まらない。身体中の穴という穴、全ての穴から汗という涙が流れていた。身体は正直だ。強がってくれない。心も正直だった。何の気力も湧かなければ、暗闇の中にただ沈みゆくばかり。思い出すだけで、恐怖が再インストールされた。 「『紅いバラ姫』の小説が好きとかほざいてたけど……そっか。リクさんは、呪われたバラの姫君に魅入られてしまったのね。だから恋愛が出来ないんだ」  目を開けると、残忍な笑みを浮かべたメイリーが視界に入り、ひたすら俺の過去を記録していた。  帰り際に、「今日あったことは、他言しちゃダメよ」と、何回もメイリーに念押しされた。しかし、俺には上の空。とてもまともに会話出来る精神状態じゃない。それを察したメイリーは安堵したようで、あっさり釈放してくれた。  俺は、言わない代わりに交換条件を出した。もう別れてくれ……と。メイリーは、弱い者いじめをするかのように嘲笑を浴びせながら、「学校で書類渡すよ」と承諾した。  ……俺はもう、華菜以外の女性とは付き合いたくないんだ。一生、彼女なんていなくていい。彼女が出来て。いつかまた、……同じ失敗をまたするのかもしれないと思うと。怖くて仕方ない。何かを得るということは、失う可能性を得るということ。失う苦しみは、失った人にしか分からない。  いや、失う苦しみを恐れているだけじゃない。俺は、誰か別の女性を好きになることで……命がけで誓ってくれた、華菜との、紅いバラ姫との永遠の愛を、裏切りたくなかったのだ。
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