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プロローグ
神話の終わりまで、決して抜けることのないバラのトゲ……そう、紅いバラ姫の腕から滴り落ちる血の雫のように、夕日が教室を紅く染めた。
放課後の教室で、幼馴染と二人きり。沙里は窓際に寄っかかり、俺は机の上に座っていた。
「リク、彼女いないの?」
「いない」
悪びれる様子もなく、あっさり答える俺。
窓の外、遠くを見ながら沙里は笑って答えた。
「はは、私もいない。部活ばかりやってたら、恋愛そっちのけで」
沙里は美少女というほどの顔立ちではないけど、春の木漏れ日のような優しい笑顔が印象に残る女の子だった。スポーティなショートカットもよく似合うし。日焼けした肌と、ほどよくついた筋肉が、部活のハードル走で鍛えた身体を思わせる。しなやかな健康美を持つ沙里は、さぞかし想いを寄せる相手も多いだろう。
沙里は、スカートがめくれそうでめくれないぐらいの勢いで、俺の方を振り返る。何か言いたげな雰囲気を感じた。
「でも、そろそろ相手探さないといけないんだよなあ。面倒くさい」
俺は、大きくうなずいた。そこだけは、共感出来る。
「俺、恋愛嫌いだから」
苦笑しつつ、沙里は穏やかな眼差しで、俺を眺めた。
「恋愛嫌いって言うより……なんでもない」
幼馴染だから、俺の事情を察してくれたのだろう。言葉をつぐんだあたりに、優しさを感じた。
「でもさ。分かるんだけどさ」
沙里は話を続けた。ものすごく言いづらそうなのが、雰囲気から伝わってくる。
「その、なんて言うか。……私も、誕生日までに誰かと付き合わないと。……逮捕されちゃうんだよね」
とてもたどたどしい。スポーツ少女のいつもの勢いに、大きなブレーキが掛かっている。
誕生日までに誰かと付き合わないと、か。そんなこと言ったら、すでに誕生日が過ぎている俺の立場は一体? いつ警察が来てもおかしくないのに、どうして俺はこんなに冷静なのか。……そう。俺の心の中は、中学二年で時間が止まっているからだ。その先は、上に溜まった砂時計の砂が、バラで傷つけた流血で塊となり、下に落ちることが出来ず、何も考えられないのかもしれない。
「ねえ、リク。私とさ……」
沙里は顔を赤らめた。前髪の奥で、恥ずかしそうな瞳が見え隠れする。
言わないで欲しい。とにかくやめて欲しい。ほっといてくれ。俺はダメな奴なんだ。恋愛なんて出来ない。恋愛奴隷市場に連れていかれるべき人間。娑婆で生きていても、楽しいことなんて何もない。心はいつも、牢獄にいるようだ。
沙里はやっとの思いで、重たい唇を動かした。
「友達にならない?」
「……どういう意味だ?」
「リク、いきなりは恋愛出来ないでしょ?」
「あ、ああ……」
俺は、呻くように返事をした。声色に動揺が出てしまった。
「私もいきなりは、男の人とお付き合いなんて出来ない。だから……」
沙里は、もじもじしながら、でもどこか楽しそうだった。
「一緒に、恋愛の練習しようよ。友達付き合いをしてさ」
「今までと何が違うんだ?」
俺の返事に対する回答を考えていなかったのかどうか、慌てる沙里。
「ええと、ようするにだね……そう。友達付き合いよ」
「だから。今までもまあ、友達付き合いだろ。……沙里は、俺のことを友達と認めてなかったのかもしれないけどな」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。何て言えばいいのかなー。そうねえ」
沙里は明るい感じに、首を傾げた。あまり悩まなそうなところが、沙里の長所だ。
「分かった」
何かひらめいたように沙里は、パンッと両手を合わせた。
「私の誕生日の前日。付き合うかどうか、お互いに答えを言い合おうか」
沙里はサラッと言ってのけた。この人、本当に悩まなそう。瞬間的な直感だけで、付き合うかどうか決めそうだった……。
「分かった。そうしよう」
沙里が友達付き合いの相手に俺を選んだ理由は、なんとなく分かる気がする。恋愛嫌いで知られる俺だったら、いきなり狼になる心配がないからだ。俺も、そんなつもりは全くないし、沙里を恋愛対象で、見られるわけがなかった。
俺自身、何かのきっかけで、恋愛をする人に変わらなくてはいけない、と思いつつ、今日まで過ごしてきた。
つまり……お互いに都合が良かったのだ。沙里の温かい手と握手しながら、そう感じたのだった。
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