あなたのほし

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あなたのほし

クシャッと獣の足が野を蹴る音がした。 青臭いけどさわやかで、ツンとすき通る空の風の色とも合わさって、僕らの世界はもっとずっと遠くの地平線の向こうがわまで続いているような気になって、ぼくは言った。 「兄さん、どこへ向かっているの。」 「ずっとずっと遠くの、星をとりに行くんだよ。」 兄さんは走るのをやめないで、凛と向こうを見つめたまま答えた。 ちょうどその日は月が純白に大きくて、兄さんの背中は月光の裏側が広がっていつもより頼もしく見えた。 そこからずっとずっと走ると、今度は桃・黄・白・ときどき青の小ぶりな花が一面にずっと広がって見えた。風も心做しか先ほどより少しやわらかくなった気がして、ぼくは言った。 「兄さん、ここらで一つ休んでいこうよ。」 「星はすぐに消えてしまうんだ。止まっていたら会えなくなってしまうかもしれない。」 まるで兄さんのやわらかさを風が吸い取ってしまっているみたいに、先ほどより冷酷に答えた。 ぼくは、僕の世界と兄さんの世界がバラバラになってしまう気がして、走る足を速めた。兄さんとぼくが通った花は、つぶれてちりぢりにされて、ぼくは心の中で精いっぱいのごめんなさいをしながら走り続けた。 そこからまたずっと走ると、僕らは背の高い緑に覆い隠されてしまった。たまに横から頭を出す枝を巧妙にくぐりながら、ぼくと兄さんは足を止めなかった。少し息も上がってきて、浮き上がる汗のにおいがぼくの鼻をくすぐっていたけど、全部春の陽気のようなこの空の風のせいにした。真似にもなっていない兄さんの真似をしながら、どこまでも続いていそうなこの迷路の中を一心不乱に駆けるのが、ぼくは楽しかった。 それから一段と星が楽しみになって、ぼくは言った。 「兄さん、星まではあとどのくらい」 「もうすぐだから、少し黙っていよう。星の声はとても小さいんだ。」 僕のせっかくの楽しい気持をふうと無くしてしまうくらい、兄さんはそっけなくぼくをなだめた。星はどんなだろうな、ぼくは静かに考えて、兄さんの心を奪ってしまうそれが少し恨めしく思えてしまった。 「つまんないな。」 シッと兄さんがぼくの口を手のひらで塞いだ。怒られてしまうかと思って、ぼくはふと開いてしまった口を後悔した。 けれども続きは期待とは違って、兄さんは思慮深いにやをこぼして言った。 「ここから先は星のすみかなんだ。星がよく見えるようにまっ暗だから、兄さんに掴まって離さないよう進むんだよ。」 確かにはっぱが生い茂っているせいで少し薄暗かったけれど、真っ暗闇なんてどこにも見えなかったから、ぼくには兄さんの言っていることがよく分からなかった。それでも兄さんは前を向いたままこちらにぐいと手を差し出すから、ぼくは慌てて「うん。」と答えた。 その手はぼくのよりひと回り大きくて、でも透き通るまっ白のようで、美しいなと思った。おそるおそる触れた瞬間、ふわと兄さんの香りがぼくを包んだ。 それから代わりに、ぼくは目を失った。 嫌になるほど生い茂っていた樹木は気配すら見当たらなくなっていて、そこらは全部どこまでもの闇が広がっていた。風はものすごく生あたたかくて、息をするのも苦しいくらいだった。 「兄さん、星はどこにいるの」 「もうすぐ。もうすぐだよ。」 兄さんの姿も暗闇で隠れて見ることができなかったから、ぼくは兄さんが手を引いてくれる力だけを頼りに、よたよたと走った。兄さんの草を蹴る音も、風が吹き抜ける音さえしなかった。ただ、ぼくの息だけが響いて聞こえてぼくは正気を保つだけでもやっとなくらい頭がぼうとしてきた。 「兄さん、星はもういいよ。ぼくは家に帰りたい。」 朦朧とする五感の中でぼくは言った。そんなつもりは無かったんだけど、とてもじゃないけどか細くて、震えていて、聞き取れるような音は出なかった。 ぼくはもう一度訴えようと、必死に息を吸って言った。 「兄さ_______」 風がぶおんと駆けてきて大きく僕を包んで、それと一緒に兄さんの手も感覚から消えてしまった。 風はとても暑くて、ぼくは涙が出そうだったけれど、堪えて懸命に兄さんを探した。 「兄さん、兄さんはどこにいるの」 びゆうびゆうと暴れん坊の泣く声だけが代わりに帰ってきて、答えは何も聞こえなかった。 「お願い、ぼくを置いていかないで」 風邪はいっそう強くなっていって、ぼくは立っていることすら出来なくなった。 「ねえったら、ひとりにしないでよ」 耳が痛くなってきたからその場でぎゅとしゃがみこんで、瞼も閉じてしまって、ぼくはもう何も言えなかった。 兄さん、兄さん。ぼくの涙は溢れた。 すると今までより一段とつよくびうんとうねる音がぼくを叩いて、すると風は嘘みたいにいなくなってしまった。それから突然にぼくは眩しい光を瞼越しに感じた気がして、うっすらと目を開けてみた。 そこには、星があった。 星はちょっぴり透き通っていて、赤色とか、桃色とか、若草のさわやかなそれとか、中心からちょうど7方に、にじいろに光を引いていた。三角のでこぼこが小さな小さな星の体にはあって、それが光を複雑に折り交ぜて、この世で一番綺麗なように朗らかで強くて甘い香りをさせていた。 辺りが暗闇であることを忘れさせるかのように、その星はぼくを誘惑して、僕も思わずその星を口にした。 それはとても甘くて、口に入れるところころとして、少しずつその身を僕と同化させて、とてもこの世のものとは思えないほど美味だった。 僕はもう一度涙を流して言う。 「兄さん、星はここにあったんだね。」
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