2人が本棚に入れています
本棚に追加
心神喪失により、無罪
強姦の被害者となり、子供を流産した後、間もなく平林は横山が借りている自宅アパートで首を吊って自殺した。
遺書はなかった。おそらく、遺書を書く気力も失われていたのだろう。
平林の自殺を報道したマスメディアは一社もなかったので、あの妊婦強姦事件がこのような結末に至ったことを知る人は、ほとんどいないと思われる。
この件は、すぐに渡辺弁護士を通じて、拘置所の横山に知らされた。
横山は、
「冗談でしょ?」と言った後、みるみるうちに顔色が青ざめていき、そのまま卒倒した。
アクリル板の向こうで、拘置所の職員に抱えられて、横山が運ばれていった。その日の面会はそこで中止になった。
法廷は裁判員裁判になるため、公判前整理手続きが渡辺弁護士と担当検事のあいだで進められていたが、横山が倒れて以降、渡辺氏と横山の意思疎通が以前のようにスムーズにいかなくなっていたため、初公判予定は延期された。
その後のことは、渡辺氏の口を借りて説明したい。渡辺氏は横山の様子について、私にこのように説明した。
「横山さんは、生きる希望をすべて失って、自暴自棄になっていました。ようやくひさしぶりに面会が叶ったかと思うと、ただでさえ身長が高いから細く見えるのに、もう指の先まで痩せ細っていました。そして、『死刑でいいです』とつぶやくばかりでした。私は、『ヤケになっちゃいけません。なんとしても、無罪を主張して、戦っていきましょう』と言っても、やはり『死刑でいいです』と繰り返しました。そしてその後、私は横山さんから代理人を解任されました。解任するのは横山さんの権利ですから、私にはどうしようもないんですが、私の後任についたのは国選弁護人で……、こう言っては悪いですが、まったくやる気のない人でした」
新たに就任した国選弁護人のもとで、横山は心神喪失による無罪の主張を取り下げた。
「たぶん横山さんは、死刑という制度を利用して、実質的に自殺をしようと考えていたんだと思います」
その後始まった公判でも、検察のいう「合成麻薬を摂取し、正常な運転ができなくなることを知りながら、事故を起こして人を殺すことになってもかまわないという、未必の故意による殺人」という起訴事実については一切争わなかった。
「僕は自分の意志で合成麻薬を摂取しました。僕に殺された4名のお子様の無念を思うと、死を以て償うのが当然と考えます。ご遺族の方々に改めて謝罪します。裁判員の皆様、裁判長様、どうか死刑判決をくださるようお願いします」
判決が下される前の最後の公判で、横山は俯きながらそう語った。
判決は横山の希望するとおり、死刑となった。横山は高裁に控訴せず、2週間後に死刑判決は確定となった。
一審判決が出た直後、被害者遺族の浜野氏に電話で話を聞くことができた。
「裁判員の皆様の決断に、感謝したいと思います。ようやくこれで一区切りつきました。横山は最初は否認していたようですが、あんな生きる価値のないゴミクズみたいな人間でも、わずかに良心が残っていたのでしょう。自らの罪を悔いて反省する姿勢を見られたのは、私たちの唯一の救いとなりました。今後は、法務省に対し、一刻も早く死刑が執行されることを望みます」
浜野氏は当然、平林の事件と横山の関係を知らない。私も思い悩んだ末、結局は告げなかった。
渡辺弁護士は、確定死刑囚となった横山に、定期的に書簡を発送し続けていた。
内容は、横山の体調を気遣うものに始まり、
「あなたは死刑になるべきではない。あなたが死刑を受け入れることは、あなたが刑務官に、無罪の人をあやめさせることになる。人に罪を犯させてはいけない。私は今も、あなたが無罪であることを示す証拠を探し続けている。再審請求について前向きに考慮してほしい」というものだった。
しかし、横山から返事が来ることはなかった。
そして、判決確定から6年後、横山の死刑は執行された。
私はそのニュースを昼のテレビ番組で見て、なんともやりきれない気持ちになった。
死刑執行の翌日、渡辺弁護士の事務所に一通の手紙が届いた。
「渡辺先生。
ご無沙汰しております。長いあいだ返事を差し上げなくて、申し訳ないと思っています。
拘置所での生活も長くなり、なんとか暑さ寒さをやり過ごすことにも慣れてきました。
一度は自暴自棄になった僕ですが、死刑囚の面倒を見てくださる教誨師の先生(浄土宗のお坊さんだそうです)の教えをいただくうちに、たとえどんなに苦しくても生き続けて、僕の事故で亡くなった4名のお子様や、恋人だった平林麻里さんとお腹のなかにいた息子あるいは娘のために祈り続けるのが、僕の責務だと認識するにいたりました。
再審請求の件ですが、僕も自分でその手続きについて少し調べてみたのですが、わからないことがいくつかありますので、一度、詳しくご教授願えませんでしょうか。
と言っても、僕には先生のお仕事に対して報いるだけの金銭は所持しておらず、立て替え払いをしてくれる親族もおりません。
まったく心もとない出世払いの空手形しか差し上げることしかできませんが、それでも引き受けてくださるなら、一度拘置所までご足労願えませんでしょうか。
今年の夏も暑いですね。お体にお気をつけください。
横山辰馬 拝」
封筒の消印を見ると、日付は死刑執行される一日前だった。
この手紙を読んで、渡辺氏は長い法曹キャリアのなかで初めて、声を上げて号泣したという。
以上が、横山の事件について私の知っていることのすべてだ。
果たして横山に償うべき罪はあったのか、あったとして死刑は妥当だったのか、法務大臣の死刑執行命令の判断は間違っていないのか。そして、刑法39条はこれからも効力を持つべきなのか、否か。読者諸賢の判断に委ねたい。
本来ならここで擱筆すべきだが、末尾に付言しておかなければならないことがある。
平林を強姦し子供を流産させ、間接的に殺した犯人は、その後強制性交の容疑で起訴されたが、被告の男は知的障害があり精神科への入院歴も複数回あったため、犯行時の心神喪失が認められ、無罪となった。
最初のコメントを投稿しよう!