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容疑者について(その2)
「ということは、そのパーキングエリアのトラックドライバーからもらったカフェインの錠剤が実は、尿検査で検出された合成麻薬だった、ということですか?」私が渡辺氏にそう尋ねると、
「そうとしか考えられません」と渡辺氏は言った。
「しかし、そのドライバーとは初対面だったわけですよね? なぜ相手は横山容疑者にそんなものを飲ませたのでしょうか?」
「それはわかりかねます。可能性としては、おそらく相手のドライバーはカフェインの錠剤と合成麻薬の両方を常習的に服用していて、うっかり間違って横山さんに提供したということが考えられます」
「なるほど……。しかし、意識がないとは言え、運転していて事故を起こしたのは横山容疑者で間違いないわけですよね。無罪を訴えることは、難しいんじゃないですか?」
「いえ、刑法39条の心神喪失に当たる可能性があります」
その条文をそのままここに転載する。
刑法39条
1.心神喪失者の行為は、罰しない。
2.心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。
私は渡辺氏に質問を続けた。
「私は法律には素人ですが、これは今回のケースにも当てはまるんでしょうか。たとえば、お酒を飲んで意識がないうちに暴れても、有罪になるわけでしょう? 今回のケースと何か違うんですか?」
「お酒を飲めば理性が後退するということは、誰でも知っていることですよね。それを事前に知っているにも関わらず、自分の意志でお酒を飲んだ結果、事件を起こしたとなると、罪は免れません。今回のケースも、横山さんが合成麻薬だと知った上で摂取し、事故を起こしたならばギルティでしょうけど、横山さんはそれをまったく知らなかったわけです」
「非常に意地悪な質問ですが、横山容疑者が実はふたたびクスリに手を出していて、嘘の供述をしているという可能性はありませんか?」
「その可能性が絶対にないとは断言はできませんが、わたしの任務は依頼人を信じて、依頼人の法的利益を守ることですので。それに、たとえそうだったとしても、それを証明する義務は、警察や検察側に有ります。事故の数日前に、横山さんが合成麻薬をどこかから購入していた事実があれば、横山さんが嘘の供述をしているという可能性も高まるのでしょうが、そういう事実は見つかっていません」
「ということは、法廷ではあくまでも心神喪失による無罪を主張していくということですか?」
「えっと……、まず現状ですが、まだ起訴されたわけではありません。横山さんの弁護人としては不起訴処分が相当と考えています。しかし、起訴されたとしても、主張に変わりはありません」
「非常に世間的に広く注目を集めている事件ですが、無罪を勝ち取る自信はございますか?」
「うーん……」渡辺氏はあごに手を当ててしばらく考えてから、「断定的なことは言えませんが、可能性はじゅうぶんあると思っております」と答えた。
次に私は、渡辺氏にこの事件の社会的な影響について質問した。
「ご存知だと思いますが、今回の事件に対する世論は非常に厳しいものとなっています。こういう言い方は問題有りますが、何せ薬物の前科がある人間がまた薬物に手を出して4人もの子供の生命を奪った、ということですから。それについては、渡辺先生はどのように考えていらっしゃいますか?」
「横山さんは昔の覚醒剤の事件に関しては、有罪判決を受け服役して出所した後ですので、すでに罪は償っています。そして出所後には、ガソリンスタンドでアルバイトをしながら、大型自動車免許を取得して運送会社に就職し真面目に勤務して、立派に社会復帰しております。薬物の前科があるということで、世間の人には色眼鏡を通して見られるのは、致し方ないのかもしれませんが、以前の犯歴は今回の事件と何の関係もありません」
罪を犯した者が、その罪を償い社会に復帰する。それ自体は歓迎すべきことなのだろう。
「先日の、双子のご遺族である浜野氏の記者会見はご覧になられましたか?」
「はい。リアルタイムでは見てませんでしたが、インターネット放送のアーカイブがありましたから、最初から最後まで拝見しました」
「感想をお聞かせ願えますか?」
「感想と言われましても……、大事な娘さんをふたり同時に失った胸中は、察して余りある、と言ったところでしょうか。亡くなられた娘さんのご冥福をお祈りし、浜野さんには心よりお見舞いを申し上げたいと思っております」
「浜野氏は、横山容疑者を殺人罪で起訴するべきだ、と主張しました」
「ええ、存じております。しかし、それは難しいのではないでしょうか。一般論としては『未必の故意』という言葉で明確な殺意がなくても殺人罪が成立するケースはありますが、今回は当てはまらないと考えます。あくまでも私たちの主張は無罪ですが、事故については起訴するにしても、逮捕容疑である危険運転致死傷が上限でしょう」
「浜野氏は現在、横山容疑者を殺人罪で起訴するようにという、署名活動をしていると聞いています。インターネットを通じた署名のサイトも開設しており、すでに多数集まっているようです」
「それも、存じております。浜野氏がそれをするのは自由ですし、世間の皆様が横山さんに対してたいへん憤っているということも承知しています。しかし、繰り返しますが、無罪を主張することに変わりはありません。それに、たくさんの署名が集まったから厳罰にすべき、というのは、まるっきり私刑です。近代国家としてあってはならないことだと考えます」
そう言った後、渡辺氏は「ちょっと失礼」と言って立ち上がった。
そして窓際の事務デスクの引き出しから封筒を取り出すと、
「ウチにも、こんなのがすでにたくさん郵送されて来てるんですよ」
20枚ほどの紙を取り出して私に手渡してきた。
見てみると、A4の紙に大きな文字が印刷されている。内容は、
「悪魔の弁護士、すぐにヤメロ」
「ヤク中殺人鬼横山の味方をするエセ人権擁護野郎」
「ゴミクソ弁護士渡辺弘子も死刑相当」
と渡辺氏を中傷する文言が書かれていた。
「横山さんの弁護をすること自体をよく思わない人が、世の中にはいるんでしょうね。……そちらもまだごく一部で、しかもマシなほうなんです。脅迫に該当しそうな過激ものは、証拠として警察に渡してありますから」
渡辺氏は苦笑しながらそう言った。
「もし仮に、ですが、未必の故意による殺人罪で起訴された場合、被害者は4人ということになりますが、心神喪失による無罪の主張が認められなかったら……」
私がその続きを言いよどんでいると、渡辺氏は察したらしく、
「ええ、そのとおりです。死刑判決が出る蓋然性が極めて高いです。だから、殺人罪での起訴はぜったいにあってはならないし、私たちは全力で戦わなければならないんです」と言った。
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