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オフィスに戻ると、残っていたのは奇しくも篠山一人だった。
すでに時刻は十一時を回っている。ここ東洋建設はコンプライアンスが厳しく、必要最低限の残業以外は許されていない。逆に言えば、こんな時間まで残っているのは余程喫緊な用事を抱える人間だけ、ということだが、会社の威信をかけたODA案件にトラブルが生じているのだ、残業どころか休日を返上してもまだ釣りが来るぐらいだろう。
実際、ODAを統括するJICAからはすでに本件に関する問い合わせが来ている。週明けと言わず、この土日にも取り急ぎのレポートを送った方が良いだろう。その意味では、今回の一件は篠山に預けて正解だったのかもしれない。
それでも。
こんな、がらんどうのオフィスで一人ぽつんと机に向かう篠山の背中は、いつにも増して寂しげに見えた。
これは、愛なのだろうか――
合コン会場のレストランを離脱し、会社に戻る道すがら、水沢は、そう何度も自問した。これは、篠山が水沢に向けるものと同じ、性愛を伴なう愛情だろうか……が結局、答えは見つからなかった。見つからないまま、ここに辿り着いてしまった。
そして今、孤独な篠山の背中に胸を痛める自分がいる。まるで自分の事のように……あるいは自分の事以上に。思えば、いつも篠山は独りだった。営業マンなら対人スキルは磨いておけといくら口煩く注意しても、篠山は困り顔で途方に暮れるばかりで、ろくに友人を作れもしなかった。性的志向ゆえに他人と関わること自体を恐れていたのかもしれない。とにかく、篠山が誰かと楽しく過ごす場面を水沢は見たことがないし、今も想像すらできない。
これは、愛なのだろうか。
あの孤独な背中に寄り添いたいと思う、この感情は……
「篠山」
水沢がかけた声に、最初、篠山は気付かなかった。が、やがて思い出したように周囲を見回し、ややあってオフィスの入り口に立つ水沢を認め、目と口とをぽかんと開いて間抜けな顔をする。
「……水沢、さん?」
「うん……」
うまく言葉が出てこない。道すがらせっかく用意した言い訳も、初手から機を逸してしまった。お前一人に任せるのは心配だから戻って来たと、そんな陳腐な言い訳を一応用意してはいたのだ。なのに、いざ篠山の顔を見るとそれも何だかどうでも良くなる。
篠山の顔を見て、ほっとして――そしてこみ上げる温かな何かを、愛と呼んでもいいのかはわからない。でも。
「ええと、合コンは……」
「抜けて来た」
「そ……そうですか……」
逃げ場を探すように篠山は目を左右に泳がせると、結局、いつものようにパソコンのディスプレイに目を落ち着けてしまう。そんな篠山の、今は主が帰ってしまった隣の空席に腰を下ろすと、水沢は、差し入れのつもりで買ってきた缶コーヒーを篠山の机の隅にそっと置いた。
「えっ」
案の定、篠山はすぐに差し入れに気付いて振り返る。ディスプレイに集中するふりをして、本当は水沢の姿もしっかり視界に収めていたのだろう。
「あ……ありがとうございます」
「いいんだって。俺の方こそ、いつも楽させてもらってるし」
「いえ……これぐらいしか、皆さんのお役に立てることがありませんので……」
「いつも言ってるけどさ、お前、そういう物言いマジで止めろよ。お前ぐらい優秀な奴に言われると、あれだよ、嫌味に聞こえんだよ」
「……すみません」
「いや、だからさ……」
駄目だ。これではまるで日常の再現だ。何より、こんな物言いは篠山を委縮させるだけだと、普段、嫌というほど学んでいるはずなのに。
とはいえ……何をどう切り出せばいいのだろう。
そもそも、オフィスに戻った理由も曖昧だ。ただ、篠山を独りにしたくなくて――あんな寂しい顔で笑ってほしくなくて。それだけの、曖昧で無意味で、そのくせ衝動にも似た感情に突き動かされて、水沢は今、ここにいる。
「す、素敵な方は、いらっしゃいましたか」
そう訊ねる篠山は今にも泣き出しそうで、答えなんか本当は聞きたくもないと顔に書いてある。だったら訊かなければいいのに。それでも訊かずにいれないのがこの男の性分なのだろう。もし相手に新しい恋人ができたなら、傷つけないよう、そっと身を引かなければいけないと……まるで慎ましい人魚姫。でも、童話の人魚姫はついに恋を叶えることができなかった。
こいつは、それで良いのか。いや、良いはずがないんだ。だからこんなに泣きそうな顔で――
「俺と付き合わないか」
「――へ?」
「だからさ。付き合おうぜ、篠山。……恋人になろう、俺ら」
「……」
篠山からの答えはなかった。ただ言葉もなく、茫然と、水沢を見つめていた。あの、吸い込まれそうに綺麗な瞳を丸く見開いたまま。
時が停まったような――地球が自転を止めたかのような静寂がフロアに満ちる。辛うじて、どこからともなく響く秒針の音だけが、水沢の主観が誤りだと伝えている。
「……なぜです」
最初に沈黙を破ったのは、篠山だった。
「水沢さんが、ヘテロ……異性愛者の方だというのは、その、見ればわかります。なのに、どうして……」
「どうしてって、そりゃ……あれだよ……」
「あれ、とは」
「……」
言えるわけがない。まさか自分が本当は〝わかめ子〟の中身で、すでに篠山の想いを知っていた、とは――が、それは必要な情報なのか。そもそも、想い人から関係を持ち掛けられれば、普通は二つ返事で応じるものではないのか。少なくとも水沢なら、それこそ水に飢えた砂漠の旅人よろしく飛びついている。
やはり篠山は〝みけお〟ではなかったのか? ……いや、これまでの態度から、それだけは考えられない。
「だ……誰かを好きになるのに、理由なんて、要るのか」
いかにもB級恋愛映画じみた陳腐な言い分。だが、こんな言い分では今日日子供騙しにもならない。まして相手は子供ですらないのだ。
やがて篠山は、椅子を回し、身体ごと水沢に向き直りながら答えた。
「必要なんです。僕には」
それは、普段のもごもごとした口調が嘘のような毅然とした物言いだった。いつもの迷子じみた情けない顔も、今は毅然と、まっすぐ水沢に向けられている。その表情に水沢は覚えがあった。ビッグサイトで倒れ込んだ〝わかめ子〟を叱りつける、厳しくも優しい男の顔。
「お察しの通り、僕は、同性愛者です。が……だからこそ僕は、僕のような人間の生きづらさをよく知っています。……確かに、同性愛者への理解は、近年は随分と広がっています。ですが、まだまだ不自由な点は多く、諦めなくてはならない幸福も多い。……これだけのデメリットを、ただ好きになったからという安易な理由で引き受けられるんですか」
「……そ、」
それを言えばお前だって。
見ていたから何だ。だからどうだと言うんだ。そんな、他愛ない理由で俺に惚れて、俺を苦しませて――
そんな水沢の目に、ふと止まる篠山の手。今も自身の膝を握りしめるその手は、よく見ると、小刻みに震えている。まるで、強い痛みを必死に堪えるかのように。
なぜ我慢する。こんな想いを抱えてまで――ああそうか、こいつのことだから、どうせ、相手に余計な苦しみを背負わせまいと。そして……事実、それらのデメリットを前に躊躇する水沢がいた。過酷な生き方を、過酷と知りながらもなお貫く篠山に圧倒されながら。
「……ないんですね」
やがて、ぽつり篠山は零す。張り詰めていた糸がふつりと切れた、そんな、悲しい音にも聞こえた。
「お断りします。幸せなら、どうか、別の方と……申し訳ありません」
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