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――困った。
ツイッターのDM欄を眺めながら、水沢英司は小さく溜息をつく。
コミケの熱狂から三日。イベント前の狂騒は嘘のように鎮まり、諸々のタスクから解放された静かな日常の只中で、水沢は、つい先日明らかになった真実にただ途方に暮れていた。
なぜ、こいつだったんだ。よりにもよって……
「水沢さん」
その声に水沢はぎくりとなる。いつの間に戻ったのだろう、さっきトイレに発ったはずの同期が、不安と畏怖とが入り混じった目でじっと水沢を見つめていた。
「お、おう……早いな」
苦笑まじりに返しながら、慌ててスマホを懐にしまう。同期は水沢に比べて十センチばかり背が高い。無神経に画面を晒していると、肩越しに覗き込まれる心配がある。
もっとも、この男の性格を考えると、そうした無作法は考えにくいのだけど。
「いえ……お待たせしてすみません」
「いや、だから早いと言って――まぁいい、帰るぞ」
そう同期を促し、水沢はクライアントがテナントで入るビルを出る。全身をむわりと包む、残暑とは名ばかりの炙るような熱気。足元のコンクリートやビル街からの照り返しで、気分は完全にオーブン突っ込まれたローストチキンだ。
まぁ、真夏のビッグサイトに比べれば幾分かはマシだが……
「今回のプレゼン用の資料、いかがでしたか」
鞄を庇がわりに頭上に翳しながら、隣を歩く同期がそう問うてくる。
今回二人が訪問したのは、現在、湾岸部で新規のマンション建設を予定する某大手デベロッパーの開発部だった。このコンペには、二人が勤務する東洋建設のほかにも数社がエントリーしており、今まさに熾烈なプレゼン競争が行なわれている。が、今回の反応を鑑みるに、受注はほぼ確定だろうと水沢は見ている。提案した設計プランの魅力はもちろんだが、何より、沿岸部ゆえの問題――震災時の地盤の液状化や地盤沈下などの諸問題に、水沢のチームは徹底した地質調査とシミュレーションとで対策を打っていた。それが今回、先方にたいそう好評だったのだ。
それもこれも、この同期がギリギリまで技術課に掛け合ったおかげでもある。
今回に限らない。この男が仕上げるプランはいつだって完璧で、準備される資料も、顧客が知りたい情報が――営業がプレゼンに必要な情報が余すところなく整えられている。サッカーで言えば、ゴール前にストライカーが走り込んだところへボールがぴったり届く感じ、と言ったところか。相方の水沢は、そのボールを得意の話術でもってクライアントに叩き込みさえすればいい。
「資料? ……いや、いつも通り完璧だった……が?」
「そうですか、よかった」
そして同期は、安堵したように胸を撫で下ろす。あれだけ完璧にレポートを仕上げておきながら、まだ不安が残っていたのだろう。完璧主義――というより、ドのつく心配性なのだ。
そんな、心配性が服を着て歩くような同期でも、さすがに想像すらしないだろう。今、目の前にいる相手が、実は――
「そ……それよりお前、いつも言ってるよな? 営業マンなんだからもう少し身だしなみに気を使えって」
「えっ……あ、はい……?」
「じゃあ何だ! そのダボダボのスーツは! 新人じゃあるまいし、いい加減、オーダーメイドの一着でも揃えたらどうなんだよ、えぇ!?」
「ひっ、す、すみません……」
唐突な叱責に、同期は大きな身体を仔犬のように竦ませる。
実際、相手の格好はおおよそ営業マンとは言えない代物だった。量販店の安物のスーツと、申し訳程度に磨かれた革靴。髪も撫でつけるどころか伸び晒しで、櫛すら入れているのかも怪しい。目元もすっかり前髪に隠れて、食い詰めたバンドマンならともかく、日本を代表するゼネラルコンストラクターの営業マンが許される髪型とは言えない。
そもそもビジネスマン、ましてや営業マンたる者、クライアントに不快感を与える格好は許されない。だからこそ水沢自身は全身をオーダーメイドのスーツで固め、乱れやすい癖っ毛を毎朝丁寧に撫でつけているというのに。
「……その、行きたいのは山々なんですが……ああいうお店は、何というか、その、怖くて……」
「怖いだぁ? お前、今年いくつだよ」
「いくつ……三十二……です」
「三十二! 俺より二つも年上のくせに何が怖いだ阿呆か!」
「す……すみません……」
そして同期は、甲羅に閉じ篭る亀のように広い肩をぎゅっとすぼめる。そんな同期の情けない姿に、しかし水沢は、ちくり胸が痛んだ。
わかっている。こんなものは、ただの八つ当たりだ。自分が置かれた状況のややこしさを――どうにもならない後ろめたさを、ただ感情的にぶつけているだけで。
「お前……仕事は完璧すぎるぐらいできるのに。損するぜ、そういう性格」
「……すみません」
余計に萎れ込む同期に、水沢は、お門違いと知りつつ苛立ちを募らせる。
謝りたいのは、本当は俺の方だってのに……
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