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銀の風船(後編)
僕は次の日、鞄にサバイバルナイフをしまい込んで家を出る。
あの後、割って入ってきた教師は、騒動に怯え泣き出した女子に慰めの言葉をかけて、加害者であるところの僕を職員室へ引っ張っていって、母親を呼びつけた。
親子ともども注意を受けて家へと帰る道すがら、母親は泣きながら「どうして普通にできないの」などと僕に言っていた。
いつもの通学路。鞄の中に手を入れて、サバイバルナイフの感触を確かめると、その硬く冷たい感触が、僕に勇気を与えてくれた。
新築の家々が、高い壁となって通学路の両脇に立ち並び、学校への道を囲っていた。制服を着た人間たちが、気だるげな表情を浮かべて歩いている。
教室に入ったと同時にナイフを取り出し、一番近くにいる誰かを刺し殺す。誰かは問題ではない。喉を狙って一突きに、殺す。網目のように繋がった敵がいるのだ、逃げ出すためにはどこでもいいから切り裂かなければならない。そんな殺人の妄想に心奪われ、ゆっくりと歩みを進める僕を、何人もの制服を着たそれらが追い越していった。
そのときだった。あの銀の風船が、空に流れていくのが見えたのは。
地上の諍いなどお構いなしで、悠々自適に空を行く銀の風船。あれの行き先にはなにが待っているのだろう。遠く見知らぬ土地に着陸するか、それとも宇宙の彼方へと飛躍し続けるのか。遥か高みに上がり続けて空に押し潰されるようにして、割れてしまうだけなのだろうか。
この通学路の先には学校があって、その先の未来には、学校を拡大して薄めたような社会が多分あって、そこでこれからも人の輪に絡め取られるようにして生きていくことになるのだとすれば、どんな結末を迎えたとしても、空を行く銀の風船は地上を這って進む人間よりも美しく尊い。
山の中腹から、ぽつぽつと空へと放たれた銀の風船は、その時々の風に流されてんでばらばらの方向へと飛翔していく。
気が付くと僕は、それらに引き寄せられるように大通りを外れ脇道に入り、山の方へと向かっていた。僕が住んでいる郊外の町は、新興住宅が立ち並ぶ区域を抜け山側へと近づくと一転のどかな田園風景が広がっていて、重々しく立ち込めていた人間たちの気配のようなものが幾分か軽くなる。
唾棄すべき人間の密度から解き放たれた僕は、畦道を進み、山道へ入り、目指すべき場所に向かって山を登っていく。そこから銀の風船が放たれているのだ。僕は知りたかった。誰がなんの目的で、あの大空に銀の風船を放っているのか。そしてその人に、なにかを伝えたかった。伝えたいものは茫漠としていて、いまいち言語化しにくいのだけれど、それはきっとかつて僕が『銀の風船』の詩に託したようなもので相違ない。
汗ばんだシャツが肌に張り付く。荒れ果てた山道に転がる岩に躓き、転んでは立ち上がり、ところどころ生い茂った藪に足を傷つけられながら進んでいく。
徐々に山道の輪郭は消えていき、天を覆い隠す背の高い杉の木に囲まれた森に放り出される。いまいる場所を確認しようとスマホを取り出すが、電池がほとんどなくなっていて、地図アプリを起動すると同時に画面が消えてしまった。昨日の夜、ゲームを遊んだまま充電するのを忘れていた。
「こんな近所の低い山で、遭難することなんてないよな?」と問いかけるが、確信は持てない。既に町の景色が見えない森の奥深くへと踏み入っていたし、僕は山に対して恐ろしいほど無知だった。だけど別にいいだろ。あんな世界に戻れなくたって。二度、三度と心の中でそう声をあげて沸き起こる不安をかき消し、山の傾斜を一歩一歩登っていく。心に浮かぶ銀の風船のイメージを、ただひたすらに目指して。
蜘蛛の巣や土埃にまみれて藪を抜けると、広場に佇む一軒の廃屋が目に飛び込んでくる。崩れ落ちた壁の隙間から中を見ると、「ヘリウムガス」と白い塗料で記されたガスボンベが大量に置かれていた。
この辺りに風船を空へ放っている人がいるかもしれないと、警戒しながら小屋の周囲をぐるりと歩いて回ると、廃屋から伸びる、大地を削り取ったような跡を見つけた。おそらくガスボンベを引きずって持っていったのだろうその跡を、僕は注意深く追っていく。
すると徐々に周囲を覆っていた木々がなくなり、彼方に広がる青空が眼に飛び込んでくる。絶望的なまでに突き抜けたその青は、町も山も全てを包み込んでいて、地上で汗ばみ疲弊しきった僕を嘲笑っているようだった。
陽のひかりに照らされて、鮮やかな色合いに染まった丘の上に、セーラー服が捨て置かれていた。僕たちの学校のそれとは違う、臙脂色のスカート。
空へ放たれる銀の風船。強烈な夏の日差しを反射して、きらきらと輝きながら天へと飛翔していく。狭量で、窮屈で、低俗な(少なくとも僕は、そう心の底から感じていた)この世界から、あんな風に飛び立つことができたなら。
その下には、全裸の女の子がいて、傍らに置かれたガスボンベを使って銀の風船を膨らませては空に解き放っていた。年の頃は同じくらいだろうか。無造作に伸びた髪が腰まで伸びていて、彼方の空を見上げたその顔は僕の方からは伺えない。
「なんで裸なんですか?」
僕が、至極当然だと思われるその疑問を口にすると、彼女は、
「昨夜、殺人狂であると判明した太陽が、裁判を起こしました」
堂々と、意味がわからないことを口にする。
彼女の言葉を耳にした僕は、遅ればせながら激しく勃起した。
こちらを向いたその顔はとても儚げで、彼女の言葉に性的興奮を覚えた僕を、恋に落とすには十分なほど美しかった。
あらわになった自らの肌を隠す素振りもなく、女の子は、ただただ銀の風船を膨らませては空に放ち続ける。真昼の太陽と、裸の女の組み合わせが生み出す非現実感が心地良くて、僕もその甘い夢に溶け込むように、身に纏った学生服を脱ぎ捨てて裸と裸で向かい合おうと思った。
思ったけれども、やはり僕は所詮は常識人だった。せいぜいナイフ一本で、それらを切り裂こうと立ち上がるのが精一杯の小心者だ。それすら投げ出して、こんなところに来てしまったのだけど。
ならばせめてここに来た意味を見出そうと、勇気を出して彼女に言葉を投げかける。もう一度、振り返って僕の方を見て欲しかった。
「どうして銀の風船を、作ってるんですか?」
「魚たちはあの夜に倒産した空を、泳いでいきました」
「どういう意味ですか?」
「かけがえのない死は、かけがえのない夢でした。」
「かけがえのない夢?」
彼女の紡ぎだす澄んだ言葉に意識を集中していると、けたたましく鳴り響いていた蝉の音が消えていくようだった。彼女の踊るように自由な言葉の配列に対して、質問などという無粋な真似をしていいのか躊躇われたけれど、僕は僕と言う枠組みの中でしか彼女と向かい合えないのだと腹をくくり、ただただ凡庸に彼女と向かい合った。
「お父さんは死にました。値踏みされたおたまじゃくしに、天使の羽は生えますか?」
「すいません。質問の意味がわかりません。でもあなたの言葉は、なんだか……素敵です」
「虚無の壁が、私を守りました。無意味=貴方。風船=私。三千世界の空、どこを探しても人間はいませんでした」
「空に人間はいない……なんとなくわかります。僕も、人間に毒されていない空を、悠々と飛んでいくその風船が好きだったから」
こんな風に、相手の言葉にしっかりと耳を傾け、慎重に言うべきことを選んで会話をしたのは始めてのことだった。家でも学校でも、耳にする価値があるものなんかなかったし、目の前の人間になにかを伝えたいと思ったこともなかったから。
「道端に咲く強姦魔、伸びては消えていく悲しみに、きっと明日はもうこない」
だけども会話は何一つ成り立たなかった。
不快ではなかった。それどころか彼女との分断は、僕の心を陶酔させる。この人が大好きだと思った。永遠に分かり合えなくてもいいんだ。彼女が空に銀の風船を放つように、こうしてずっと、この人に言葉を投げかけていたいと思った。
「あなたは、悲しいのですか?」
「畑に植えられた金魚の、経済学ですか?」
「まるでひとつの詩のようですね。あなたは、言葉を愛しているのですか?」
「お父さんは死にました。私は、朝を弔います」
会話の中で、「お父さんは死にました」というフレーズが繰り返し出てきたので、彼女のお父さんは本当に死に、それが今の彼女の在り方に大きく影響しているのだとなんとなく思った。
よく見ると全裸で風船を作り続ける彼女の肌は、ところどころ虫に刺されていてぷっくりと腫れていた。しかしそれを気にする素振りもなく、ただただ風船を作り続けている彼女の世界は、完全に現実に勝利している。余計な憶測などやめて、ただただ彼女の言葉に耳を傾けようと思った。
「硝子細工の強姦魔が、十四時五十三分に亀の卵子を踏みにじりました!」
彼女は大きな声をあげて、駆けていった。その先には強烈な向かい風に押し戻された銀の風船があって、そのまま風船は背の高い木の枝に引っかかってしまった。
彼女は、裸のまま木によじ登ろうとする。
「僕が取ってきます」
不思議そうに首を傾げる彼女を尻目に、僕は両腿で太い木の幹を挟んで、上へ上へと登っていく。木登りなんかしたことなかったし、数メートル登ったところで、自分が高所恐怖症であることにも気付いてしまった。だけど彼女に、かっこいいところを見せたかった。
「よっと」
なんとか風船が引っかかっている木の枝にお尻を乗せて、下を見下ろす。
みしりとしなった枝は、今にも折れてしまいそうだった。だけど下で、遠巻きに彼女が僕を見てくれている。それだけで心は高揚し、恐怖感が和いだ。僕は、ゆっくりと枝の先へと進んでいって風船を手に取った。
「ありがとう!」
弾けるような笑顔で、彼女は一言そう言ってくれた。
これが僕と彼女が、初めてこの世界で通じ合った瞬間だった。
そして僕を支えていた木の枝が、ポキリと折れる。この肉体を与えられたその日から、重力はずっと僕を監視し、縛り続けていて、彼女に組した僕を、この世界の裏切り者として糾弾し、地上へと叩きつけるのだ。
僕の手を離れ、軽やかに天に消えていく銀の風船。あんな風に空を飛んでいけたなら。そんな僕の願いは、いつだって現実によって押し潰される。
目を覚ますと、無数の紐がくくりつけられた僕の腕が目に入った。
浮かび上がる紐を追って視線を上げると、無数の銀の風船が、僕の身体にくくりつけられているのだと理解できた。
女の子は、相変わらずその嘘偽りのない姿で、ガスボンベのところで風船を作っては、地面に倒れる僕の身体にそれをくくりつける。
「これは、なんですか?」
僕が目覚めたことに気付くと、女の子は少し驚いたような顔をして「お父さんは死にました」と言う。
「僕は、死んでません。ほとんど死んでいるようなものだけど」
「腐った命の海に浸されていても、窓枠の外には、青空がありました」
「うん。空は、いつもそこにある」
彼女は、再び風船を僕にくくりつける作業を始める。僕は、彼女にとても大切にされてるように感じて、なんだか嬉しくなって泣き出してしまう。勘違いかもしれないけど、こんな素敵な女の子に、僕は大切に扱われているのだ。
「僕は、この世界が嫌いです。生きてるだけでなにもかも盗まれて、手元になにも残らない。自分の心すら残すことすら難しい、この世界が嫌いです」
「醜く汚れたウサギの子は、手榴弾を更新しました。強姦の方程式を殺してください。鳥は羽ばたき、夜にさよなら。あなたの所有者は、あなたです」
そうだ。僕の所有者が僕であるという特権だけは、誰にも犯すことはできない。彼女は、そう解釈しうる曖昧さをもって僕を肯定してくれている。その言葉は、羽毛布団のように柔らかく暖かい。
「……僕は、あなたのことが大好きです」
いつの間にか彼女は、僕のナイフをその手に握っていた。建前によって取り繕われた一見清らかに見えるあの教室を、真実の赤で染めてやろうと持ってきたナイフもまた、僕の身体と同じように無数の風船がくくりつけられていた。
「これは、あなたの秘密基地ですか?」
「そうですね。そのナイフは、僕の心の秘密基地です。この大地で、この町で、無神経に平然と生きている罪を、償わせてやろうと思っていました。だけど、すっかりその気がなくなってしまった。彼らと同じ地平に立って、なにかするなんてバカらしいとあなたを見て思いました」
彼女から、ナイフを受け取る。
無数の風船の浮力で重さを失ったそれを宙に放ると、そのままゆっくりと浮かび上がり、天へと昇っていった。
「お父さんは死にました!」
どんな論理的に整合性の取れたやりとりよりも、どんな深い感情的な理解を前提としたやりとりよりも、支離滅裂な彼女とのコミュニケーションは、信頼に値するもののように思えた。彼女との、決して繋がることのない会話に身を委ねながら僕は、身体に銀の風船をくくりつけていく彼女を見守り続けた。
僕の身体から伸びる、おびただしい数の銀の風船。ふわりと、僕の左足が浮く。日が落ちる頃には、重たい僕の頭部以外は概ね、心地良い浮力を帯びて浮かび上がるほどになっていた。
きらきらと赤く輝く夕焼けが、町を包み込んでいた。思い返してみれば、夕暮れ時には、部屋に篭って読書か、ゲームか、あるいは早々に眠りについてその日の記憶を洗い流そうと必死になっていた僕は、こんな鮮やかな、世界が血に濡れたような光景を見たことがなかった。下校が遅れていたときは、早く家に帰ることに必死で、空なんて見上げる気持ちになれなかったし。
こんなに美しくも恐ろしいものが、毎日、僕の日常の裏側を埋め尽くしていたなんて。それはまさに、詩のようだと思った。
彼女は、山ほど風船の束を手に持って、こちらにやってくる。風船をくくりつける彼女の汗ばんだ裸体はとても性的だったけれど、そのような目で見る汚らわしさを自己批判して勃起を諌める。
「夜が強姦する前に、反転しますか?」
彼女の口から、強姦という言葉が時折出るたびに、胸が痛んだ。
「反転します」
彼女は、風船の束から垂れ下がった糸を、くるくると僕の頭に巻く。
すると僕の重たい脳味噌もまた浮かび上がり、僕の身体はゆらゆらと地上がから離れていった。彼女は、僕をこの世界の薄汚い重力から解き放ってくれたのだ。
「いまだ約束は施錠されています」
なすがまま空へと飛んでいこうという僕の手を、そっと彼女が握り、繋ぎ止める。どうしてだか彼女のその行為が、僕に最後の選択肢を与えてくれているかのように思えたんだ。
初めて好きになった彼女の温もりさえも手放して、この世界の外側へ、あの空の向こうへと銀の風船のように飛んでいくか、あるいは体中から伸びる風船を外して、重力を受け入れて再び地上の時を生きるか。
指と指が絡み合い、いわゆる恋人繋ぎのようになった手の柔らかな温もりに、胸がときめく。例えば地上に降り立ったとして、ふたりで共にこの世界を生きて大人になっていく。そんな未来もあるのだろうか?
「壁の中に生えた眼球は、ヘリウムガスを通信して、壊れた岩肌に強姦された柔肌に、涙の線はお父さんが死にました。状況次第で午後三時の暴力が食べられて、魚は空を飛び、少女の算数はガンジス川に溺れて、破裂した子供達の嘆きは笑い顔に溶けました」
言葉を優しく並べ立てる彼女の、剥き出しになった肌が夕焼けを受けて赤く染まっている。
彼女と僕が共に地上で生きていく未来――いいや、そんな都合のいい話はないだろう。彼女のように僕はなれない。どんなに強く願っても、彼女と共に生きていくことはできないのだ。この地上にいる限り、僕は人間的な思考の枠組みに収まりながら、人間的な在り方を憎み続けて生きていくしかない。中途半端な僕は、例え彼女が僕のことを受け入れてくれたとしても、きっと彼女の聖域を汚してしまう。
僕は、生まれながらの性的な暴力装置。彼女の魂を強姦してしまう定めにある。人間的で、勃起した、最低の人間だ。僕は、誰にも愛される資格もないし、誰を愛する権利もない。そしてそんな僕のことを、僕は密かに愛していた。
握り締めた彼女の手を、ぐっと押して手放す。
僕の身体は、ゆっくりとゆっくりと風に流されるようにして赤い空に向かって飛翔していく。
小さくなっていく彼女が、笑顔で手を振りながら僕を見送ってくれている。下を見ると、十五年間生きてきた町が小さく見えた。あのミニチュアのような世界に、人間たちが生きている。これからもなにかを盗み合いながら、懸命に生きていくのだろう。もう僕はそれに触れることも殺すこともできない。
ずっと見上げていた。夢にさえ見た銀の風船が、夥しい数、僕の身体から伸びて浮かんでいる。夕焼けを受けて赤く煌くそれらは、僕をどこに連れて行ってくれるのだろうか?
彼女が授けてくれた浮力は、いつものように益体もないことを考え続ける僕の脳味噌さえも包み込んで、空の彼方へと運んでいく。
<終わり>
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