銀の風船(前編)

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銀の風船(前編)

 神隠しか、東洋のバミューダトライアングルか。  教室では、このところ不思議なことが起き続けていた。  例えば先生からの頼まれごととか、トイレとか、教室を離れなければならない用事があって教室を出て行く。手早くそれらの用を済ませて戻ってくると、必ずなにかがなくなっているのだ。なくなる物に法則性はない。シャーペン、消しゴム、ノート、体育着、上履き、なんでもござれだ。 「ここにノートなかった?」  などと隣で机を並べて昼食を食べている女子たちに聞いても、「んー、わからないなぁ」と困ったように笑うばかり。<消失>の目撃者は、今までひとりたりともいなかった。  昨日などは弁当箱が<消失>してしまい、飢え死にするかと思った。その件に関しては、そもそも昼休み前の休み時間に、花壇に花を見になど行ってしまった僕が馬鹿と言えば馬鹿なのだけど、水の底にいるかのように重く、息苦しく、ひとりもがき続けることしかできないあの教室から、一時でも解放されたいと願うのはそんなに悪いことだろうか?  新興住宅に挟まれた小奇麗な通学路の向こうには、山々が見える。背筋をすっと伸ばした杉の木が列になって生い茂っている山々は、列を成して学校へ向かう僕たちのようで不気味だった。  今日も、彼らと僕の分断された教室では、なにかがなくなるのだろう。それは神隠しかもしれないし、もっと科学的な超常現象かもしれない。クラスぐるみの陰湿ないじめかもしれない。  そして失われたものは、決して返ってこない。消え去ってしまうのは仕方がないとして、せいぜいそれがスマホとか、学生証とか、取り返しのつかないものでなければと祈るばかりだ。  夏を先取りした気の早いミンミン蝉が、けたたましく命の炎を燃やして鳴いている。  一歩一歩、学校が――教室が、近付いてくる。陰鬱な気分を振り払うため、僕は空を見上げる。刺すような強烈な青に目が眩み、視線を山の方へと向けたときだった。  確かにそれは浮遊していたんだ。遥か高みで、きらきらと光を照り返して。  銀の風船が。  アルミ製の風船が、堂々と彼方へと流れていく。すぐに小さなひかりのつぶてとなって見えなくなったと思うと、山のほうからまた風船が飛んできて、彼方へと消えていった。 「なにぼーっとしてんだよ」  通学路。立ち尽くしてしまっていた僕に、クラスメイトの男が気さくに声をかける。 「いや、風船が……」  言いかけたところで遠くから予鈴が聞こえてきたので、僕は「なんでもない」と返して駆けていく。  あの教室が、どんどん近付いてくる。年相応の学力と、中学の卒業資格を得るために(それは、僕の遥かな未来に繋がっているものらしかった)、僕は今日、どんな代償を支払うことになるのだろうか。  僕は、LINEをやっていなかった。人と人との繋がりを緩やかに強制するそれは、なんとなく罠とか毒とか、そういう類の悪いもののように思えて、いくら人に進められても頑なにダウンロードせずにいた。 「クラスのグループチャット、入らない?」  だから、柔道部に所属する前の席の男にそう聞かれた時にも、「LINEやらないんだ」となんの感情も込めずに答えた。  その結果、僕は『教室』という(僕が考えていたよりも、ずっと強い結束を持っていた)ネットワークから切り離され、孤立した。  今も、黒板に数式を書き連ねる先生の目を盗んで、クラスメイトがスマホをいじってなんらかの情報をグループチャットで共有していた。そして、何人かはこちらを見て愉快そうに笑った。笑顔の端に露骨な悪意を示す者もいたし、ただ純粋に楽しんでいるだけの者もいる。ちなみに今朝方、気さくに声をかけてきた彼は、露骨な悪意を示すタイプだった。  こういうのを見ると、それぞれがそれぞれに気を遣っているように見える僕たちの社会は、ただただ自分が攻撃されないように取り繕いながら、その奥で浅ましい自意識をこそこそと押し広げ、満たそうとしているだけなのだなと思う。なんで数年前まで僕は、世界は万人を許容する、優しいものだなんて致命的な勘違いをしていたのだろう。誰のことも受け入れられない、僕自身の狭量な心も省みずに。  クラスメイトたちは、物凄い指裁きでスマートフォンに何かを綴っていく。それは、一度電波に乗って教室の外に飛び出ていってから、『情報』としての強度を高めてもう一度戻ってきて、グループチャット上のなんらかの計画を進行させる。 「戻ってこなくていい。戻ってこなくていいんだ……」  声となって漏れ出た僕の言葉を聞いて、隣の女子が怪訝な顔を向ける。そしてすぐにスマホを操作して、なんらかの報告を行っていた。愚かにも僕は、彼らの授業中の暇つぶしのネタを自ら提供してしまったのだ。  ダメだダメだ。くだらぬことに意識を向けても仕方がない。(僕にとっての)正常な高度に思考を戻すため、ノートに黙々と詩を書いていく。  題材は、今朝見た銀の風船だった。 『空高く』  銀の風船が 飛んでいく先  衰退や滅びを纏った重力に 押し潰されませんように  そう祈って ただ僕は夢を見る  今ここでない場所へ  行きたい  例えば空が 絶望に続いているとしても  それでもきっと 見上げると思う  目が眩んでも ひかりの空を  届きたいのか 逃げたいのか 今の僕にはわからない  だけど とにかく 飛び立っていく銀の風船に  焦がれ涙してしまう僕がそこにいるのだ  忙しない朝に 取り残されながら  銀の風船を僕は見上げる  心が、すっとノートに落ちていった感じがして、なんだか気持ちが良かった。  詩を綴ったその数学のノートは、僕が手洗いに行っている間に盗まれた。  不注意だった。だけど仕方ないだろう。外に出るとき、いちいち全ての荷物を持って行くわけにもいかないし、あの息が詰まる教室にずっと居続けるのは精神的に無理だ。となると自衛手段としては、盗まれて悲しくなるようなものを学校に持ち込まない、という消極的な方法くらいしかなくて、気をつけていたんだけど。今朝方の授業中。どうしようもなく僕は、あの銀の風船から受けた強烈な印象を、言葉にしたかったのだ。そしてそれは悲しいことに、盗まれた際に痛みを伴うような宝物になってしまった。  放課後。窓から差し込む生暖かい、重たい湿気を伴った夕焼けの学校を、泳ぐように彷徨っていた。『銀の風船』の詩が記された数学のノートを、あてもなく探して回っていたのだけれど、丸々と太った男がリンチされている現場に出くわしてしまった。  リンチしている強面の男達も、幼い顔つきで曖昧な笑顔を浮かべている太った男も、およそ同じ学年ということで見たことはあっても名前は分からない。 「話しかけてくんなって言ってんだろ」 「だって、ツツジの花が咲いたから。みんなで蜜を吸ったでしょ?」  太った奴が、無邪気に言う。  場にそぐわない彼の無邪気な言葉を砕くように、男達は腹部に蹴りを何発も入れ、童顔の男は、涎を垂らしながらうめき声を上げる。  このくらい分かりやすくいじめが行われていれば、犯人も特定できるし対策だって打てるのに、と僕は思った。僕のクラスの人間は、徹底的に証拠を残さない。そもそも首謀者がいるのかすら定かじゃない。チャットグループの話題作りのために、誰ともなしにやっている節がある。だとすると解決するには、クラスメイト全員を殺すしかないわけだけど、そんな計画はとても現実的ではないだろう。僕は、僕の人生をこれからも歩んでいきたいし。未来を犠牲にするほど価値がある怒りじゃない。  教室で暴力が、実行されている。そんな非日常的な空間を目にし続けた僕は、なんとなしに彼を助けようと思った。正義感なんてものは多分なくて、ただ見てみぬふりをしたくなかっただけなのだけど。  一息吐いて恐怖を拭って、一歩踏み出す。 「先生くるよ」  あくまでも敵対的にではなく、リンチしている側に協力的なニュアンスで男達に声をかける。 「誰だお前」 「誰でもないよ。ただ、ここで面談があるから」 「……じゃあ、場所変えるぞ」  悪態をつきながら太った男を連れて行こうとする。 「その子も、面談に呼ばれてたよ」  彼らは、「どうする中口」とぼそぼそと相談し初める。しばらくして、「チクんじゃねぇぞ」と念を押してから太った男を解放して、去っていった。  放課後の夕暮れに取り残された、僕と太った男。童顔で、所作がいちいち遅くて、どこか抜けた印象のある男を見て「ああ、俺はこいつが嫌いだな」と思った。 「君は……」  抜けた笑顔で話しかけてきた童顔の男が話し終わるのを待たずに、僕はその場を後にした。虐げられている者同士の、惨めな馴れ合いなんてごめんだ。  家に帰ると、母と母の友人数人が食卓にいて、なにやら熱心に話し込んでいた。 「スーパーで売ってる食べ物ね。あれ毒を食べてるようなものなんだから」  健康食品のパンフレットを持った母とその仲間に囲まれて、説明を受ける老婆。老婆は、話の内容はあまり理解していないようだったが、にこにこと母の話を聞いていた。  僕はとっとと二階の自室に駆け込んで鍵を閉めた。中学にあがってから取り付けた部屋の鍵は、家族の侵入を完璧に拒んでくれる。  数年前から母は、バカみたいに高い洗剤や健康食品を知人に売りつける、ねずみ講まがいの商売に手を染めていた。 「お母さんは、恥ずかしい。どうして普通にできないの?」  悪さをした僕を、いつもそんな風に叱り付けていた母だったけれど、見境なくご近所さんにも商品を売りつけようとした結果、今では、ねずみ講の痛いおばさんと近隣の人々から距離を置かれている。家に来ているねずみ講の仲間たちだけが、友達だった。  僕は、引き出しから刃渡り40センチを超えるサバイバルナイフを取り出して、ダンボールを紐で縛り付けて作ったその塊を、勢いよく刺した。  熱せられたナイフでバターでも切るように、鋭い刃がダンボールに刺し込まれていく。右手から広がる心地良い感触。僕はその快楽を味わいたくて、何度も何度もダンボールにナイフを差し込んだ。  ああ、心が落ち着く。こんな風になにもかも切り裂いてしまえたら楽なのに。  僕は穏やかな気持ちで、今日あったことを日記に記し始めた。  例えば僕の大切なノートを盗んだであろうクラスメイトの喉笛を掻っ切りたいとか、そうすることによって透明な世界は血によって具現化されるとか、この世界の支配構造を打破するためには五十億人のテロリズムが必要なのだとか、そんなようなことを書き連ねた。  外の空気に触れて死んでいた心が、施錠された部屋の中で回復していく。  少し前向きな気分になった僕は、ベッドに横たわりスマホを取り出して、お気に入りのゲームを始めた。経験値効率のいいイベントを、無心で回し続ける。なけなしのお小遣いを叩いて手に入れたキャラクターを、ただただ無心で強化する。  このゲームの良いところは、この手のゲームでよくある『ソーシャル要素』――他のプレイヤーと協力関係を築くことでメリットが生じる要素がほとんどないことだ。誰と触れ合うこともなく、ただただ自分を鍛えていけばどのような敵も打ち倒すことができる。  現実が、そんなシンプルな構造だったならどんなに気楽だっただろう。連帯が禁じられた世界。研ぎ澄ました自分のナイフしか、価値を持たない世界。体力があるわけでもない僕は、そんな世界でも標的になり虐げられてしまうかもしれないが、一対一で身体と心を刺し合った結果なら納得が行くというものだ。  その日、一限目の授業が急遽、学活に変更された。  柔道部の顧問である担任は、そのどっしりとした身体を戸惑う生徒たちに向けて、 「悲しいことが起きた。この学年で、イジメが起きたんだ」  と、重々しい口調で切り出した。  それを聞いて、隣のクラスでリンチされていたあの太った男のことを思い出した。 「中口たちのことだろ?」  と、クラスメイトが話している。みんなこの件については、既に概ね把握しているようだった。 「それでだ。二度とそういった悲しいことを起こさないように、今日はイジメは何故いけないかというテーマで、議論してもらおうと思う」  机の下で、こそこそとスマホをいじりだすクラスメイトたち。何をグループチャットで話しているのかは知らないが、彼らのにやついた薄気味悪い表情から、ろくでもないことを話しているのだろうということは理解できた。 「じゃあまず川村。どうしてイジメはいけないと思う?」 「憲法で、基本的人権が保護されているから?」 「憲法がなかったらイジメていいのか?」 「そんなことするわけないじゃないですか。友達は大切です!」  取り繕った真面目な表情で、正論めいたことを述べる。 「仲間を傷つけたとき、自分も傷ついている気がしますし」 「多数で、個人を攻撃するなんて卑怯者のやること」  始終そんな風に議論は進んでいった。教師の満足の行く回答を、察して述べて面倒な時間をいかにやりすごすか。どうやらそれがこの授業のテーマのようで、教室にいる人間たちは、求められた答えを求められるがまま述べていった。  教師が生徒達の示す回答に満足した頃。いきなり僕は、意見を求められた。 「――それで、どう思う? さっきから黙ってばかりじゃないか」 「えっと、イジメというものをどう定義するかにもよりますけど。毎日毎日、私物が盗まれていくっていうのをイジメと定義するなら……僕もこのクラスでイジメられてます。犯人は分かりません。迷惑ですけど、どうして『いけない』のかなんてわかりませんし、労力かけていちいち他人に干渉して、そんな無駄なことをするのかも理解できません。僕が聞きたいくらいです」  気が付いたら、面倒くさくなって全部ぶちまけてしまっていた。周囲の人間たちが、ぎょっとした顔でこちらを見ていて、すっとした気持ちになった。 「それは、どういうことだ?」 「昨日は、数学のノートがなくなりました」  教師は、難しい顔でクラスを見渡してから、 「勘違いじゃないのか?」  と言った。 「事実です」 「俺らは、そんなことしないよなぁ」  と呆れた様子で誰かが言うと、戸惑いや苦笑いに彩られた同意が教室に満ちていく。罠が仕掛けられようとしている。本能的にそう思った。 「なくしたんじゃないの? 一緒に探そうか?」  さっきまでスマホを熱心にいじっていた女子が、心配そうに声をかけてくる。  僕は、この空気を知っている。マルチ商法まがいのあこぎな商売をしている母とその仲間たちは、部屋に連れ込んだ老人に対して、いかに市販の食料品や薬品が信用できないかということを多人数で語り、同意し合い、自分たちの売りたい商品を売る。大多数の同意、同調圧力は、人の心を縛り付ける力になる。  僕があげた告発もまた、そういった同意の空気にずぶずぶと沈められていった。 「放課後、詳しく話を聞かせてくれ」  学活を締めくくったその教師の声の響きには、僕のことを信用していない疑わしさが込められていた。教室に蔓延した、『僕がおかしいことを言い出して困っている』みたいな空気に飲み込まれてしまっているのだろう。 「先生は、お前の味方だぞ」  結局、数日経って、証拠らしい証拠が見つからなかったため、大事にはしないほうがいいという結論が出た。僕が教室で浮いた存在にならないために気を遣っている、という体でうやむやになったのだ。  見上げると登校中の空には銀の風船が浮かんでいて、ゆらゆらと風に流されどこかへと飛ばされていった。あの風船を見ると、いつだって泣き出したいような切ない気持ちになる。盗まれた詩を思い出しながら、再びその情感をノートにぶつけてみようと試みたが、あのときの気持ちは二度とペンには篭らなかった。  数学のノートの片隅に、僕が書いた銀の風船についての詩。  それがデータ上ではあるが一応見つかったのは、数日経ってからのことだった。  その日、学校に行くと気の弱そうなクラスの男子が、わざとらしい、なにかを演じているような調子で僕に話しかけてきた。僕のノートの画像がネットにアップされているのを見た、ということを伝えるとそそくさと去っていく。多分クラスのグループチャットで、そう伝えろと命じられたのだろう。  罠なのだろうとは思いながらも、男に教えられた匿名掲示板のサイトをスマホで確認する。目に飛び込んできたのは、盗まれた僕のノートの画像だった。『空高く』というタイトルは『僕の心の叫びを聞いて!』というタイトルに改変されて、空を行く銀の風船へ想いを寄せる僕の詩が、晒し首のように野ざらしに、ネットに置かれていた。  多くの人間たちが好き勝手にコメントをしている。 「気持ち悪すぎだろw」 「とっとと飛び降りて死ねw」 「リアル厨ニなら微笑ましいだろ」 「いやいや。公開オナニーは公然わいせつ罪wお悩みならとっとと首吊ってどうぞ」 「こういう心無い大人が多いから、子供たちの心も歪んでいくのでしょうね」  匿名の誰かの、上から目線の、価値のない意見が並んでいるだけだ。そう思い込もうとしたのだけれど、無遠慮なその書き込みに僕はうかつにも傷ついてしまう。頭に血が昇ったのだろうか。一瞬なにも考えられなくなってしまい、気が付いたら椅子を黒板に向かって放り投げていた。  投げ放たれた椅子は、奇麗な放物線を描いて教室の中心を突っ切って飛んでいき、けたたましい衝撃音を響かせる。  静まり返った教室に、誰かの「なにやってんだよ!」という怒鳴り声。僕は気にせず、また椅子を投げつけようとするが、誰かに押し倒されて床にねじ伏せられる。跳ね除けようとするが、後ろから何人かの男子が圧し掛かってきて身動きが取れなくなってしまう。もののついでだと、取り押さえられた僕の腹や手足を、誰かが殴りつけていた。  僕は次の日、鞄にサバイバルナイフをしまい込んで家を出る。
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