夏を覆う曇天

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夏を覆う曇天

 ◆◆◆◆◆  梅雨入りが発表され、毎日ぐずぐずと雨ばかり続いている。  今日も朝から降っていた雨は、放課後になっても止んでいなかった。  陽介は昔から雨が嫌いだ。  外で遊べないし、お気に入りのスニーカーも水がしみて不快になる。  それに何より、天候や気圧の変化に弱い蛍が、雨の日はよく体調を崩すから。  この日も昼休みに頭痛を訴えた蛍は、保健室に休みにいき、結局6時限目が終わるまで戻ってこなかった。  自分の荷物と、蛍の分の荷物も代わりに纏めて、陽介は教室を出た。  保健室へ向かう途中、廊下の窓から見上げた空には、鉛色の分厚い雲がどんよりと垂れ下がっている。  まだまだ雨は止みそうにない。  下校する生徒たちの間を縫って階段を下り、1階の廊下を曲がったところで、担任の斉藤と鉢合わせた。 「おお、日向。いいところで会った」  うわ…、と陽介は心の中でため息をついた。  この手の前振りから、教師にいい話をされた試しがない。 「お前、まだ進路希望の用紙出してないだろ。未提出なのは、クラスでお前ひとりだけだぞ」  ───やっぱりロクな話じゃなかった。 「……すんません、まだ決まってないんで」  早く蛍の元へ行きたくて適当な言い方になってしまったが、嘘は言っていない。  週明けには期末テストが控えているし、それが終われば夏休み。高校3年生もいよいよ折り返し地点だ。  そろそろ進路について真剣に考えなければならないのはわかっているが、陽介には自身の未来がまったく想像できなかった。  それこそ、分厚い雲に覆われた今の空みたいだ。その先にある空なんて、今の陽介には見えない。  着々と進路を決めていく友人やクラスメイトが、不思議で仕方ない。 「期末テストが終わるまでには出してくれよ。進路懇談が控えてるんだからな」 「了解でっす」  期限までに答えが出ているとは思えなかったが、適当な返事をして陽介はその場をやり過ごした。  大人になる実感なんて、まるで湧いていないのに、時間は無慈悲にも陽介の背中を押してくる。  蛍はきっちりした性格だから、恐らく進路もほぼ定まっているだろう。  なんとなく大学へ進学するのだろうと思ってはいるが、改めて訊ねたことはない。  訊いてしまえばまた少し、蛍が先に行ってしまう気がして。  そんなことを考えながら、陽介は廊下の突き当たりにある保健室の扉を叩いた。  カラカラと引き戸を開けると、校医の女性がデスクから顔を上げた。陽介はほとんど世話になったことはないが、ふっくらとした輪郭が、優しそうな顔立ちを引き立てている。 「あの……3年2組の観月蛍、迎えにきたんですけど……」 「ああ、観月くんね。なかなか頭痛が治まらないっていうから、そこのベッドで休んでるわ」 「ありがとうございます」  校医に軽く頭を下げ、陽介はそろりと淡いピンク色のカーテンを捲って、蛍の様子を窺った。  チャイムの音にも気づかなかったのか、蛍はまだベッドの上で、静かに寝息を立てていた。  久しぶりに見る蛍の寝顔は、知らない内にずいぶんと大人びている。  ───蛍って、こんなに睫毛長かったっけ。  蛍は決して派手な顔立ちではないが、顔のパーツひとつひとつが小綺麗な形をしている。  陽介の気配にも気づく様子がないので、よほど熟睡しているのだろう。  声をかけたいような、もう少し眺めていたいような。振り子みたいに、心が揺れる。  おとぎ話みたいに、いっそキスでもしたら目を覚ますだろうか。  薄く開いた、形のいい蛍の唇を見つめる。  誰とも重ねたことがないだろう、淡い色の唇は、なぜかとても扇情的に見えた。  トクン、とひとつ、陽介の心臓が大きな音を立てる。  これまで付き合った相手と、陽介からこれといって欲情したことはなかったが、今この場で蛍に誘われたら、陽介は一瞬で流されてしまう気がする。  おとぎ話の王子は、なぜ寝ている姫にキスをするのか、子どものころはまったく理解できなかった。  けれど今なら、王子の気持ちが少しわかる気がする。  姫を救いたいなんて、そんな高尚な想いからじゃない。  キスで起こした自分のことを、きっと王子は、姫に見てほしかったんだ。  自分だけを見て、自分だけを愛してほしいという、誰もが抱く下心。  ───蛍が、この先もずっと俺だけを見て、俺の隣に居ればいいのに。  この傲慢で身勝手で乱暴な感情は、世間で『恋』と呼ばれているものなのだろうか。  だとしたら、恋なんてまったく綺麗なものじゃない。  蛍にすら軽蔑されてもおかしくないほど、陽介の胸に渦巻く感情は、熱くて重くてドロドロしている。 「ん……?」  小さく呻いて、蛍がようやくうっすらと目を開けた。  しばらくぼんやりと宙を彷徨っていた視線が陽介をとらえて、その瞬間、白かった蛍の頬にパッと赤みがさした。 「陽介……!? なんで……?」 「なんでって、もう放課後だぞ。戻ってこねぇから、迎えにきた」  教室から持ってきた蛍の荷物をベッドの足元へ下ろす。 「あ……ありがとう。起こしてくれれば良かったのに」 「いびきかいて寝てたから、起こしたら悪いんじゃねーかなって」 「えっ!? 嘘だろ!?」 「うん、嘘」 「なっ……陽介、お前な……!」  青褪めたと思ったら、陽介の冗談で再び蛍の顔が赤くなった。  昼休みよりは、ずいぶんと顔色がいい。 「頭痛、治まったか?」 「うん。寝たらだいぶマシになった。いつもは頭痛薬持ってるんだけど、この前使い切ったの忘れてて……」  明日から頭痛薬を持ち歩いておこうと、陽介は密かに決意する。 「先生、ありがとうございました」  ベッドから下りた蛍が、校医に向かって丁寧に頭を下げた。  お大事にね、と言った笑顔に見送られ、蛍と並んで校舎を出た。  弱まる気配のない雨が、そこかしこにできた水溜まりに波紋を描いている。 「明日もまた雨かな……」  紺色の傘を開きながら、蛍が憂鬱そうに呟いた。  隣で陽介も、ビニールのジャンプ傘を開く。  同じ傘なのに、材質が違うせいか、雨を弾く音が互いに違っていて面白い。まるで俺たちみたいだな、と陽介は思った。 「スマホの週間予報だと、この先一週間はずっと雨らしいぞ」 「ええ……。じゃあ梅雨明けは、早くてもテストが終わってからかな」 「テストだけでも憂鬱だってのに、雨ばっかで嫌になるな」  テストの話題が出たことで、陽介はふと、急かされた進路希望の件を思い出した。 「あのさ。蛍は、もう進路決まってんの?」 「えっ?」  軽い気持ちで切り出したのだが、蛍の肩がビクリと隣で強張った。  蛍の顔を見ようとしたけれど、傘が邪魔で見えない。 「……決まってる、けど……」  雨音に混ざって、歯切れの悪い答えが返ってきた。 「なんだよ、とっくに決まってるって言うかと思ったのに。進学?」 「……うん」  短く答えたきり、蛍は黙り込んでしまった。  明らかに様子がおかしい。  もしかして、しっかり者の蛍でも、進路には悩んでいたりするんだろうか。  ───そもそも、体調の悪いときに話すことでもねぇよな。  天気も雨だし、テストも近い。  そこに加えて進路の話なんて、確かに憂鬱だ。 「テスト終わったら、海行く日決めようぜ。別に海以外でもいいけど」  少し声のトーンを上げて話題を変えてみたが、体調が万全じゃないからなのか、蛍はどこか空返事のままだった。 「ただいま」 「ちょっと陽介! 進路希望の用紙ってなに!?」  おかえりの言葉もなく、リビングから鼻息荒く母が飛び出してきた。  家でもその話かよ…と陽介はげんなりする。 「さっき担任の先生から電話があったわよ! とっくに提出期限過ぎてるらしいじゃない。こっちは寝耳に水だったから、変な汗かいちゃったわ」  結局親にもチクってんのかよ、と陽介は柄悪く舌打ちした。 「しょうがねぇだろ。まだなんも決まってねぇんだから」 「またそうやって開き直るんだから。アンタ、やりたいこととかないの?」 「寝たい」  この馬鹿、と母が呆れた顔で陽介の頭をはたく。 「まったく……少しは蛍ちゃんを見習いなさいよ」 「蛍? 蛍がなに?」 「蛍ちゃんのこととなると、真面目に聞くのね。……今日、蛍ちゃんのお母さんとスーパーで会ったのよ。蛍ちゃん、関西の大学に行くんだってね。春から一人暮らしするらしいじゃない」 「え……?」 全身から、サッと血の気が引くのがわかった。  ───関西の大学? 一人暮らし? 誰が? ……蛍が?  母の言葉を頭の中で何度繰り返しても、言われたことがうまく理解できなかった。 「なによ、その顔? ……もしかして、蛍ちゃんから何も聞いてないの?」  聞いていない。  蛍からは何も。  毎日顔を合わせて、一緒に過ごす時間もあったのに、陽介は蛍の口から何も聞かされていない。  まだ何か話している母の声は、もう耳に入ってこなかった。 「ちょっと陽介!?」  呼び止める母の脇をすり抜けて、陽介はどうにか自室へ向かった。  明かりも点けないまま、閉めた扉に背を預けてずるずるとその場へしゃがみ込む。  帰り道、進路の話をした途端に態度が硬くなったのは、体調のせいじゃなかったのか?  どうして何も言ってくれなかった?  俺には言いたくなかった?  居心地がいいと思っているのは俺だけで、お前は俺と離れることに、なんの躊躇いもないのか?  汗ばむ季節のはずなのに、手足がひどく冷たかった。 「……なんでだよ、蛍」  心細い声は蛍に届くことなく、蒸し暑い部屋に溶けていく。  陽介の胸に溜まった重い感情は、窓を叩く雨音と共に、大きくなるばかりだった。
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