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打ち寄せる夏 side 蛍
◆◆◆◆◆
防波堤に制服のまま腰かけて、蛍はぼんやりと海を見ていた。
五月の海は、真っ直ぐな陽射しを浴びてキラキラと光っている。
子供の頃、陽介と毎日のように来ていた場所だ。
お揃いの自転車を走らせて、防波堤から魚を見たり、釣りをしたり。
あの頃は、一人で海に来るのは親から固く禁じられていた。
それは陽介も同じで、だから蛍が海に来るとき、隣に陽介の姿も必ずあった。
一人で海に出掛けるのを咎められなくなったのは、いつからだっただろう。
この町には商業施設もないし、カラオケやゲームセンターなどの娯楽もない。
個人が営む小さなスナックはポツポツとあちこちにあるけれど、蛍のような学生向けの娯楽施設はなにもない。
だからこの町の学生たちは、休日になるとバスや電車を乗り継いで繁華街へ繰り出していく。
陽介も友人たちと遊びに出掛けることが多くなり、蛍は一人で海へ来る機会が増えた。
蛍も陽介も、成長するにつれて自由に行ける場所が増えたけれど、心は年々窮屈になっているように感じる。少なくとも、蛍はそう思っている。
小さい頃は陽介と遊ぶのに理由なんて要らなかったけれど、今は口実がなければなんとなく誘いづらい。断られたらどうしよう、なんて、昔は考えもしなかった不安が頭をよぎるようになった。
だから蛍は、一人で海にやって来る。
かつては陽介と一緒でなければ来られなかった海が、今は皮肉にも、一人で時間を潰す場所になってしまった。
夏の気配が近づいてくる海は、陽介みたいだなと蛍は思う。
眩しくて、少し浮ついた波が何度も押し寄せてきて、触れようとすると気まぐれに引いてしまう。
眺めていると心地よくて、それだけで何時間でも過ごせる気がした。
陽射しを遮るものがなにもない防波堤は、ジッと座っているだけでジリジリと肌が焼けるように暑い。まだ五月でこの暑さなのだから、真夏だったら熱中症になっていそうだ。
乾いた喉に、ペットボトルのサイダーを流し込む。
蛍は炭酸が苦手だ。コップ一杯程度でも腹が膨れてしまう。
けれど陽介は昔から炭酸飲料が大好きで、特に暑くなると毎日のように飲んでいる。
蛍が今飲んでいるものも、陽介が子どもの頃から好きな有名メーカーのサイダーだ。
陽介と同じものを飲んだくらいで、少し距離が縮まっているように感じる自分は、我ながらどうかしていると思う。
結局三分の一も飲み干せないサイダーが、蛍の隣でぬるくなっていく。
陽介が隣に居たら、早々に「要らないならもらう」と掻っ攫っただろうに。
「女々しいな…」
蛍の呟きは、風に乗ってあっという間に波に溶けた。
こうして一人で過ごしているとき、蛍は何度も海に向かって、陽介への想いを吐き出してきた。
初めて陽介が彼女を作った日には、思い出したくもない呪詛を吐いたし、「好きだ」とか「会いたい」なんて、多分もう息をするように繰り返している。
陽介に届く前に、波がすべて攫っていってくれるから、蛍は海が好きだ。
本当は陽介のことが一番好きだけれど、その想いは蛍とこの海だけの秘め事だ。
ポケットからスマホを取り出すと、時刻は17時半を過ぎたところだった。
ずいぶん日が長くなってきたな…と、まだ明るい空を見上げて思う。
これから夏が来て、秋になって、日が短くなる頃には、蛍と陽介はどうなっているだろう。
高校三年生なんて、きっとあっという間だ。
来年の今ごろは、どんな思いで海を見ているのだろう。そもそも海を───陽介を、一年後も見ているのだろうか。
スマホのメッセージアプリを起動して、陽介の名前を指先で呼ぶ。
最後に送ったメッセージは3日前。陽介から訊かれた、数学の試験範囲を答えたっきりだ。
『バイト中?』と打って、送信する前に文字を消す。
陽介は週に3日、学校近くのラーメン屋でアルバイトをしている。今日はまさにその日で、陽介が今バイト中だということは、訊くまでもなくわかっている。
『会いたい』と打って、それもすぐに削除した。
本音を隠したら、陽介に送るメッセージすら浮かばない。
陽介と付き合っていた女子たちは、別れてもメッセージを送ってきているのに。
結局なんの言葉も思い浮かばず、夕日が沈みかけた海の写真を撮って、それだけを送信した。
そろそろ帰ろうと腰を上げたところで、ポケットに仕舞いかけたスマホが震えた。
『海でなにしてんの?』
バイト中のはずの陽介から返信がきている。
陽介への想いに浸りたくて…なんて言えるはずもなく、『特になにも』と味気ない返事を返すと、波止場で黄昏る男性のスタンプが送られてきた。
こんなスタンプどこで見つけるんだ、と思わず口許が緩む。
やり取りが端末越しのメッセージになっても、陽介との時間はいつだって名残惜しい。
まだしばらくは陽介という海で溺れていようと、蛍は思った。
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