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六月の夏花火 side 陽介
◆◆◆◆◆
「ちょっと陽介。またこんな時間から遊びに行くの?」
玄関の靴箱に、確か去年の花火が残っていたはず───陽介が棚の最上段を漁っていると、廊下から呆れた声がした。
取り込んだ洗濯物が溢れるカゴを抱えて、母がため息をつく。
面倒くさい相手に見つかった…と、陽介もこっそりため息を零した。
「アンタ、あとひと月もしたら期末テストでしょ? また先生から呼び出されるのは御免だからね?」
陽介は遅刻が多く、定期テストの成績も毎回振るわない。だから過去に二度、母が学校に呼び出しを食らった。
三度目があったら、父も交えて家族会議の上、スマホも没収だと言われているのでさすがにそれは避けたい。
「別に、そんな遅くならねーよ。……相手、蛍だし」
蛍の名前を出した途端、母が「あら」とワントーン高い声を上げた。
「蛍ちゃんと出掛けるの? なによ、珍しいじゃない」
打って変わって興味津々な顔をして、母がひたひたと近寄ってくる。
昔から、蛍は母のお気に入りだ。
陽介と違って聞き分けがいいし、真面目で礼儀正しい蛍は、母の理想の息子像らしい。
陽介からすれば、アンタに育てられてこうなったんだと言いたいところだが、面倒なので聞き流している。
「昔はお互いの家に泊まったりしてたけど、最近は全然ウチにも遊びに来てくれないから寂しいわ」
「母ちゃんが晩飯食べて行けって毎回引き止めるから、鬱陶しいんじゃねーの」
「まあ、可愛くない! 憎たらしいアンタより、蛍ちゃんの方がご馳走のし甲斐があるわよ。いつか連れてくるなら、蛍ちゃんみたいな子にしてちょうだい」
冗談めかした母の言葉に、陽介はハッとなった。
これまで一度も、付き合った相手を家に連れてきたことがない。そもそも連れてこようと思ったことすらなかった。
彼女たちには申し訳ないが、何年も先の未来でも一緒に過ごしているビジョンが、見えなかったんだろうと思う。
───じゃあ、蛍との未来は?
この先も蛍との関係はずっと続いていくだろうと、陽介は漠然と思い込んでいるけれど、蛍の描く未来に、陽介は居るんだろうか。
もし居なかったら、それは嫌だ…なんて、あまりにも子どもっぽい感想が浮かんだ。
蛍にも母にも笑われそうなので、絶対に口には出さない。
「……いっそのこと、連れてくんのが蛍なら問題ねぇの?」
ふと思い立って訊いてみたら、一瞬目を丸くした母が、呆れ顔で陽介の脛を軽く蹴飛ばした。
「なに言ってんのよ、厚かましい。アンタみたいな男、蛍ちゃんの方がお断りでしょ」
───厚かましい、か。
そういえば蛍は、どんなヤツが好みなんだろう。
彼女が居たことはなくても、好きな相手の一人や二人、居たことはあるだろう。
初心な蛍の前で、恋愛の話はなんとなくタブーのような気がして、陽介は敢えて触れないようにしてきた。
蛍も自分から打ち明けるタイプではないし、最近はますます自分のことを話さなくなった。
───海だって、誘ってくれりゃ一緒に行ったのに。
誘いたくない理由があったのかもしれないが。
どちらにしても、陽介にとっては面白くない。
だから当てつけるように、陽介から海へ誘った。
母の言葉は的を射ている。
子どもみたいな我がままで振り回して、蛍から離れられないのは、昔からずっと陽介の方だ。
蛍を誘いに行く前に、自宅の前の自販機で缶コーヒーを買った。
いつも通りサイダーを選ぼうとしたけれど、ガキっぽいと思われたくなくて、くだらない見栄を張った。
この時点でもう充分ガキっぽい。
蛍の家のインターホンを押すのは、ずいぶん久しぶりだった。
昔と変わらない音がして、少し間を置いてから蛍が玄関から顔を出した。
ボーダーシャツに、細身のチノパン。
陽介のよく知っている、飾り気のない私服姿に内心ホッとした。
高二のときの修学旅行で、クラスの女子の誰かが「観月くんは私服が残念」と零しているのを偶然耳にしたが、わかってねぇなと陽介は鼻で笑った。
蛍のシンプルで垢抜けない感じが可愛いのだ。
他の誰も、気づかなくていい。陽介さえわかっていれば。
───あれ、これって独占欲か?
なんだか途端に気恥ずかしくなって、陽介は素っ気なく蛍を誘った。
「行くぞ」
六月初旬の夜の海は、陽介と蛍の貸し切りだった。
小学生のころ、季節外れの海に来て、誰も居ない砂浜を蛍と二人で駆け回ったときの高揚感を思い出す。
陽介は友人たちとたびたび海へ遊びに行くが、シーズンオフには滅多に訪れない。
海の家を満喫したり、ビーチで肌を焼いたり、友人のナンパに付き合ったり、花火をしたり……。
ほとんどが蛍とは縁遠いレジャーばかりだ。
蛍はもうすっかり海とは疎遠になってしまったのだと思っていたから、こうしてまた蛍と海に来られたことが、陽介は素直に嬉しかった。
昔のようにはしゃぎたい気持ちを抑えて、持参した手持ち花火を砂浜へひっくり返す。出掛けに靴箱の中から発見したものだ。
「なにそれ。わざわざ買ってきたのか?」
蛍が陽介の隣にしゃがみ込んで、物珍しそうに花火を眺める。
潮風に乗って、ふわ…と仄かにシャンプーの匂いがした。
───え、もしかして風呂入ってきたのか?
いやまあ、まだ六月とはいえ蒸し暑いし、陽介だって出掛ける前に入浴することはたまにある。
なにも過剰に意識するようなことじゃない。
「いや、ウチにあった。去年、陽菜が遊んだヤツの残りだろ、多分」
意識を逸らしたくて、無理やり妹の話題をねじ込んだ。
妹の陽菜が去年使った花火の残りというのは、別に嘘じゃない。
「勝手に持ってきて、陽菜ちゃん怒るんじゃないか?」
「どうせ新しいの買うだろうから、別にいいって。……あ、親父のライター借りてきたけど、ロウソク忘れた。まあ直接点けりゃいいか」
両親は陽介と歳の離れた陽菜にも甘いから、余りものの花火がなくなっていたって、きっと気にも留めないだろう。
ついでに、ヘビースモーカーな父が持つライターの一つを、こっそり拝借してきた。
「……陽介、なんか悪いヤツになったよな」
「は?」
やけに神妙な声で蛍が言うので、思わず陽介まで声のトーンが下がってしまった。
蛍の前では、ガラの悪いところはなるべく見せたくないのに。
「悪いヤツっていうか……悪そうなヤツ?」
「ほとんど一緒だろ、それ」
「陽介が俺以外の友達と居るときは、そんな感じなんだろうなって思った」
「……それ、いい意味で言ってんの?」
責められているような気がして、蛍の顔が見られず、陽介は手持無沙汰に花火を並べながら問う。
「……なんとなく、寂しくなっただけ」
波の音にかき消されそうな声音で、蛍が呟いた。
思わず陽介の手が止まる。
陽介より先に、どんどん大人に近づいているのは蛍なのに、どうして蛍が寂しくなるんだ。
一人で海を見ている時間も、寂しいって思ってたのか?
「あのさ。お前、一人でよく海に来てんの?」
「……なんで?」
「別に。気になっただけ」
「……よく、ってほどでもない。たまに行くくらい」
「何しに?」
「……特になにも。息抜きとか、ちょっと考え事したいときにはちょうどいいから」
俯いたまま、蛍が答えた。
夜のせいもあって、蛍の表情がよく見えない。
───ほら見ろ。やっぱり蛍は、隠し事がずいぶん増えた。
「蛍だって、悪いヤツになってんじゃねーか」
「えっ? ……どういうところが?」
「俺のことは何でもよく見てるくせに、自分のことは見せなくなった」
陽介がそう言うと、それっきり蛍は下を向いて黙り込んでしまった。
別に責めているわけじゃないし、気まずい空気にしたいわけじゃない。
話してくれないことが、面白くないだけだ。
「まだ六月だってのに、蒸し暑いな。喉渇いた」
蛍が気にしすぎないように、陽介はわざとらしく話題を逸らした。
隣で蛍が、ホッと小さく息を吐く気配がする。
───ああ、良かった。俺はまだ、蛍のこういう変化には気づける。
「飲みモン持ってきた?」
「ああ、うん……一応」
てっきり蛍も同じだろうと高を括って、互いに持参した飲み物を見せ合い、陽介は愕然とした。
───え、嘘だろ……?
蛍の手には、陽介がいつも飲んでいるサイダーのペットボトルが握られている。
蛍もまた、陽介が缶コーヒーを持参したことに驚いていた。
「……陽介、いつからコーヒー飲めるようになったんだ?」
「蛍こそ、炭酸苦手じゃねえの?」
「………」
お互いの視線が泳ぐ。
そこで陽介は、蛍が陽介に合わせてくれたのだと察した。
蛍は陽介が何を飲んでいようと馬鹿にしたりしないのに、どうしてこんな見栄を張ったんだろうと、今更悔いた。
取り敢えずひと口含んでみたコーヒーは、やっぱり苦くて酸味があって、陽介には美味いと思えなかった。
蛍もまた、シュワシュワと爽やかな音を立てるサイダーをひと口飲んだきり、手が止まっている。
蛍も陽介に合わせて背伸びをしたんだろうかと思うと、愛おしくて嬉しくなった。
「飲まねぇならそっちくれ」
サイダーを持て余している蛍の手からペットボトルを奪って、陽介はゴクゴクと豪快に喉へ流し込んだ。
───あ、これ間接キスじゃん。
ふと気づいたけれど、口にすると蛍が過剰に意識しそうな気がしたので、気づいていないフリをした。
内心浮かれている自分にも、気づかないフリをしておこう。
「蛍って、最近花火とかすんの?」
「いや……手持ち花火なんて、もう何年もやってない。多分、小学生のときが最後だと思う。……陽介は?」
「俺はまあ……ダチとたまにやるくらいだな」
蛍が他の誰かと花火をしていないと知って、陽介は軽い優越感を覚えていた。
ところが陽介の返答を聞いた蛍は、途端に黙り込んでしまった。
……そんなあからさまに「面白くない」って顔されたら、勘違いしそうになるだろ。
子どもっぽいのは陽介だけだと思っていたのに、実は蛍もそうなのかって、問い詰めたくなるだろ。
黙ったまま、蛍が細い線香花火を手に取った。
危なっかしい手つきでライターを扱うのに見かねて、代わりに火を点けてやる。
先端に灯ったオレンジ色の小さな玉を、蛍はジッと見つめている。
陽介は昔から、この小さい線香花火があまり好きではない。
楽しい時間が終わってしまうような感じがして、寂しい気持ちになる。
花火と一緒に蛍との関係も、その内ぽたりと落ちて消えてしまうような気がして、陽介は咄嗟に大きな線香花火を手に取った。
「火、くれ」
分けてもらうにはあまりに頼りない線香花火の先端から、辛うじて火種を受け継いで、陽介の持つ大きな線香花火が眩しく弾け始めた。
「なんでこんな小さいヤツから貰おうと思うんだよ。ライターで点ければいいのに」
目の前で弾ける花火に、眩しそうに目を細めながら、ようやく蛍が声を上げた。
「だって今にも消えそうじゃん、そいつ」
───まだ終わらせるなよ。
本来の花火の季節もまだ先だ。
だからまだ消えないで、俺の傍に居ろよ。
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