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止まらない夏時計
◆◆◆◆◆
そろそろ梅雨入りかと囁かれているこの時期に、大雪でも降るんじゃないかと思った。
いつも通りの下校中、陽介が突然「テスト勉強教えてくれ」なんて言い出したから。
「え…? どうかしたのか、陽介?」
蛍の口から出たのは、いたって率直な問いかけだったのだが、陽介は思いきり不貞腐れた顔になった。
「ほらな。俺がちょっとでも勉強する気になったら、周りからこういう反応されるんだよ」
───あ、しまった。これは茶化しちゃいけないヤツだ。
理由はわからないけれど、どうやら陽介は本気で勉強しようとしているらしい。
咄嗟にそう察した蛍は、それ以上踏み込まず、応じることにした。
「別に、俺で良ければいつでも教えるけど?」
「マジ? じゃあ今日このまま俺ん家寄っていけよ」
「突然お邪魔して平気なのか?」
「いいって。むしろ母ちゃんは蛍の顔見たら、小躍りして喜ぶだろうから」
小躍り…?、と蛍は首を傾げたが、いざ陽介の家を訪れると、リビングから陽介の母が本当に小躍りで飛び出してきた。
「やだ! 蛍ちゃんじゃない!」
「どうも…お邪魔します」
ペコリと軽く会釈をする蛍の両肩に手を置いて、陽介の母は目尻に皺を刻んで笑った。
「久しぶりねえ…大きくなって。今日も陽介と出掛けるの?」
「いえ、今日は陽介から勉強を教えてほしいって頼まれて───」
「おい、蛍。余計なこと言わなくていい」
グイッと横から陽介が蛍の腕を引っ張った。
そこで何となく合点がいった。
陽介はきっと、母親のためにテストを頑張りたいのだ。過去に何度か、成績のことで陽介の母が学校に呼び出されたのは、蛍も知っている。
でもカッコつけな陽介のことだから、その姿勢は見せたくないのだろう。
蛍にはこれといった反抗期もなかったので、親の前で頑なに意地を張る陽介の姿は、羨ましいし微笑ましい。
「蛍くんは、飲み物コーヒーでいい?」
「あ、お気遣いなく」
「用意しておくから、陽介、あとで取りにきなさい」
「へーへー」
適当に返事をして、陽介が先に2階の自室へ続く階段を上がっていく。
蛍も陽介の母に一礼して、後に続いた。
久しぶりに足を踏み入れた陽介の部屋は、蛍の記憶にあるそれと、あまり変わっていなかった。
部屋にバスケットボールが転がっているのも、出しっぱなしのゲーム機のコードが床の上で絡まっているのも、相変わらずだ。
部屋に吊るされた服のサイズが大きくなって、少し派手になったかな…というくらい。
何より、昔と変わらない陽介の匂いがする。そのことが蛍を安堵させた。
「……それで、この公式を使えばさっきの問題も解けるから……」
「ふわあ~……」
蛍の解説を、陽介の気の抜けたあくびが遮った。
「……ダメだ。数字見てると、眠くなってしょうがねぇ」
「次のテストは頑張るんだろ?」
「そうは言っても、人間には向き不向きってモンがあるんだよ」
「俺が教えたのに全然成績が伸びなかったら、俺までおばさんに叱られる」
それはないって、と陽介はテーブルに頬杖をつきながら軽く手を振った。
「母ちゃんは常に蛍の味方だからな。恋人を連れてくるなら、蛍みたいなヤツがいいんだってよ」
「えっ……」
思わず、息が止まりそうになった。
───わかってる。そんなのは、ただの冗談だ。
本当にそうなることはないと思っているから、出てきた言葉。
でももしも万が一……いや、億が一くらいの確率で、俺が陽介の恋人になれたとしたら……?
実際にそんなことになったら、きっとがっかりされるに決まっている。
『こうだったらいいのに』と『こんなはずじゃなかった』は、いつも紙一重だ。
陽介に告白をして、恋人になって、そうして「こんなはずじゃなかった」とフラれる夢を、蛍は何度も見てきた。
「……蛍?」
突然黙り込んだ蛍の顔を、陽介が覗き込んできた。
慌てて我に返り、取り繕うようにコーヒーを口に運んだ。
───にが……。
いつもブラックで飲んでいるのに、無理やり口に含んだコーヒーは胸が焦げるほど苦かった。
「なあ。夏休み、なんか予定あんの?」
すっかり勉強に飽きてしまった陽介が、スマホを弄りながら問いかけてきた。
最早蛍がここに居る意味はない気がするのだが、自ら「帰る」と言うのも名残惜しくて、結局蛍だけがテスト勉強を続けている。陽介の部屋で。
「特にないかな。お盆に九州のばあちゃん家に行くくらいだと思う」
「陽介の家は、毎年家族旅行に行ってるんじゃなかったっけ?」
「今年は陽菜の希望で、ランド行くらしい。だから俺はパス」
「どうして? 一緒に行けばいいのに」
「くそ暑い中、何時間もアトラクションに並ぶとかあり得ねぇだろ。しかも家族でだぞ? 待ち時間の間、何してりゃいいんだよ」
げんなりした顔をする陽介がとても「らしい」と感じて、蛍は思わず笑ってしまった。
しかし途端に、陽介は眉間に深い皺を刻んだ。
「……こういうとこも、デリカシーねぇのかな、俺」
拗ねたように、ぽつりと陽介が零す。
「え? ……もしかして、前に俺が言ったこと、気にしてる?」
「……悪いかよ。誰より付き合いの長い蛍に言われたら、割とやべぇのかって思うだろ」
口を尖らせる陽介が可愛くて、蛍はまた笑った。
蛍よりずっと度胸があって、行動力もあるのに、こういうふと見せる子どもっぽい陽介の表情に、蛍は弱い。
「テスト終わったら、また海行こうぜ」
「え? また夜に?」
「別に、昼でも夜でも。けどお前、人多いの苦手だろ? 7月になったらそれなりに人も来るだろうから、夜の方が空いてていいかもな」
「それって……」
───まるでデートじゃないか。
口にできない言葉は、苦いコーヒーと一緒に胸の奥へ流し込んだ。
口許が緩んでいないといいけれど。
「ただいま」
自宅に帰ると、キッチンから焼き魚の匂いがした。
陽介の母から「夕飯食べて行ったら?」と誘いを受けたが、断って正解だった。
「おかえり、蛍」
エプロン姿の母が、キッチンから顔を出す。
「遅かったわね。また陽介くんとどこかに寄ってたの?」
「ちょっと、陽介ん家に寄ってた」
「あら珍しい。あなたたち、昔から変わらず仲良しね」
「うん」
曖昧に笑って、そのまま自室へ向かおうとする蛍を、思い出したように母が呼び止めた。
「あ、そうだ。期末テストが終わったら、進路懇談でしょ?」
ギクッと心臓が嫌な脈を打つ。
陽介と海へ行く約束を交わして夢見心地だった気分が、一気に現実へと引き戻される。
「……そうだけど」
答えた声が少しかすれた。
聞こえるはずのない、時計の秒針の音がする。
そこに、のんびりとした母の声が重なった。
「大学、どっちにするか決めたの? 関西は遠いから、近くの大学にするかもって言ってたけど」
「……関西の方にする」
短く答えて、蛍は今度こそ足早に自室へ向かった。
時計の針は止まらない。戻ることもない。
見たくなくてずっと目を背けていたけれど、夏の向こうには、初めての分かれ道が待っている。
その先は、陽介と一緒には進めない。
───このまま、夏が終わらなければいいのに。
あと何回、陽介と一緒に海へ行けるのだろう。
子どもみたいに膝を抱えて、蛍は少し泣いた。
ポツポツと、梅雨入りを告げる雨が降り始めていた。
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