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回想半ばプロローグ
足元を掬う光の色が、いち、に、さんと変わり始めた。気が付けば灰に交じった薄いオレンジが、地面を淡く燃やしている。砂利の表面が現実感を帯びていなくて、ほっぺたでもつねろうとしたけれど、傷む心が現実を鮮明に証明していたからやめた。その代わりに、中途半端に上がった手のひらで空気を撫でてみる。冬の乾いた空気には色も形もないのに、なんだかとても重いような気がした。
重さに任せるままにだらん、と手をベンチに横たえる。左手だけが身体に触れて温かいはずなのに、硬質で素っ気無い木製の板に触れている手の方が熱く感じている。
セーターだけではもう寒いのに、重たい空気と触れているところよりもずっと、冷たくて痛い場所があったから、寒さは感じなかった。
「…………」
腰の位置が下がってきたから渋々座りなおす。視点が高くなると、遠くの家の屋根の上からぼんやりとオレンジが差し込んできた。
どうやってこの公園に来たかあまり覚えていない。
覚えているのは、頭の中を駆け巡るたった数文字の言葉が自分にもたらした感情の尽くだった。
少し強がって、好きな歌を口ずさんでみる。そうして聞こえてきてのは、今にも消えてなくなりそうな小さくて細い声だった。あんなに好きな歌だったのに、少し口ずさむだけで届かない場所がキリキリと痛む。いっそ握ることができたならいいのに、その願いは叶わない。
「…………あ」
何を考えるともなく――それができたとして、今まともな事が考えられるかと聞かれると首を横に振るだろうが――座っていると、足元に柔らかいのものが当たったような気がした。ぼんやりとしたまま視線をずらすと、泥だらけに汚れたサッカーボールが見えた。
そこまでしてから、納得する。これは、公園に来てからずっと一人でボール遊びをしていたあの小学生のものか、と。
そんな事を考えていると、小学生は慌てて走ってきて、様子を窺うようにあの、とだけ言った。
「一人?」
「うん」
「そうか。僕も…………僕も一人だ。ボール、君のだよね」
「うん」
「はい、これ」
「…………一人は寂しい?」
「えっ」
「…………わたしもいま一人だから、寂しくなくなるまでは一緒にいるよ」
「寂しく……ないよ」
「うそだ。だって、泣いてる」
「…………え」
泣いてる。
そう言われてから頬に左手の指を数本添わせると、つう、と雫が伝うのが分かった。
本当だ、泣いてる。いつの間に、泣いていたんだろう。
「ねえ、名前は?わたしは晴綺」
「名前…………花月蒼。蒼でいいよ」
「アオイ…………なんか、名前もいっしょになるとかわいいね、アオイ」
「そっ…………そう、かな」
「うん。クラスの子たちよりもかわいい」
「はは……クラスの子たちの方がずっと可愛いよ、きっと、みんなね」
「そう?」
「うん、そうさ」
晴綺は足をプラプラとふりこみたいに動かしながら、ちょこん、と行儀よくボールを抱えている。そんな風にしたら服が汚れてしまうよと言おうかと思ったが、服には既に土の色が多く見えたからやめた。
そうする代わりに、ほんのりと薄赤くなった耳の後ろに髪を払う仕草をする。襟足がうなじを隠すくらい長くて柔らかい髪を。顔の輪郭に指の爪を這わせるみたいに流す動作は、いつもよりもしなやかにできた気がした。
そんな風に誰かに認めてもらえたのは――。
「ねえ、晴綺はさ…………誰かを待ってるの?」
「どうしてわかったの、アオイ!すごい!」
ほおっと感嘆の息を漏らし晴綺の視線が、隣に座る蒼を見ながら、ちらちらと公園の入り口に向かっていたから、誰かを待っているのだと気が付いたのだ、とは言わないでおいた。この、蒼がずっと誰かに気づいてほしかったことに気が付いてくれた少年には、自分は一人の寂しくて不思議な――お兄さんでいようと思ったのだ。
「ふふ。さあ、なんでだろうね」
秘密めかして目と口を細めてみたが、晴綺が隣に座ったから膝の上に重ねなおした両手は頼りなさげにきゅ、と握られていた。
うーん、と俯いて唸る晴綺は、少ししてからあっ、と高い声を上げて、悪戯っめかし、歯を覗かせて言った。
「アオイも誰かを待ちたいから……わたしと似てるから分かったんだ?」
「…………そうかな。うん、そうかもね」
「んーなんかはっきりしてないな……間違えたかー」
あーあーと意味もない音を口から吐き出しながら足をぷらぷらと振り始めた晴綺に動揺を悟られないように取り繕った言葉は案外すんなり出てきてくれたけれど、それでもずっと歯切れは悪かった。
誰かを待ちたいと思っているから。
そんなの、自分が一番よく分かってるんだ。待っているだけではダメなんだと。でも、踏み出した脚は二歩目を踏む場所が分からなくなって、それからずっと悩んだままだ。
それからしばらく、晴綺が振るとりとめのない会話に付き合った。幕引きの速くなってきた街の中の小さな公園で、誰かを待っている少女と誰かを待っていたかった不思議な――青年が話した事は全部、何日も覚えていられるような内容ではなかったけれど、何日も覚えていられそうな温かさはたしかに感じた。それは、そのまま晴綺と別かれるのが惜しくなるくらいの温度だった。
「ねぇ、アオイ」
「どうしたの?」
そんな会話の中で唯一、蒼の中でその先も長い間記憶にとどまり、確かな熱をはらみ続けたものがあった。
それは、蒼が見つけた、たった一つの光だった。自分が手に入れる事ができなかった、大切なものだった。
失くしたくはない、とてもとても大切な…………。
「わたし、すきな人がいるんだ」
「――そう、なんだ……なんていう子なの?」
「雪無っていうんだ。わたしが待ってるのも雪無」
「……!」
晴綺と会う事ができたから、蒼は手のひらから滑り落ちていった大好きだった日々の記憶をなくしても、また歩き出すことができたのだ。晴綺に告げた言葉は、晴綺を救っただけではなかった。
紛れもなく、その言葉は花月蒼自身を照らすものだったのだ。
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