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――悪意はなかった。無邪気な好奇心に悪意はなかった。そこに在ったとすれば、長い時間をかけて作られた歪な観念が縛りあげる価値観の産物の好奇心だった。そこに悪意はなかった。
――理解はなかった。ひた隠していたなりたい自分になろうとして拒絶されてもうわべだけの言葉は理解するだけの重みを持っていなかった。そこに理解はなかった。
――二人になった。長い時間、他人を拒絶し続けたぶん、なりたい自分と今の自分との間で対話を何度も交わすことができた。まだ壊れたくないと願う二人の自分は、なりたい自分でいる時間と今の自分でいる時間を作りだして好奇心の箱庭に戻ることができた。二人になった。
――重なって一人になった。今どちらの自分でいるのか分からなくなるくらい、二人の自分の境界線は曖昧になって、今の自分のままなりたい自分でいるようになった。はじめにゆだねた時とは違う。重なって一人になった。
――文字にしてみた。青色の人影として生まれた自分の、本当になりたい自分はピンク色の人影のほうだって気が付いた。けれど無意識の悪意でできた鎌でそのささやかな願いは刈り取られた。青でいる自分を認める時間で椅子に座ってペンを動かした。ピンクになれた自分に喜ぶ時間で黒いランドセルを背負って街を歩いた。それは六つの年が過ぎ切って、初めての三つになってから、混ざり合った色になった。振り返って文字にしてみた。
――次の三年が、やってきた。
「…………」
右の耳に青とピンクの髪留めを交差して留め、結えてしまえるくらい長い髪が風になびかないように鞄を持っていない方の手で押さえる。周りの話し声は聞こえないふりをして、たまに感じる視線は透明なものだと思うようにして、一人で帰り道を歩いた。
「……なあ、お前、花月だろ。同じクラスの」
「えっ」
急に声を掛けられて戸惑いながらも振り返ると、蒼よりも一回り大きな身体つきの男子生徒が人懐っこい笑顔を浮かべて立っていた。眠たそうな半分の目が頬に押されてさらに細くなり、そのくしゃっとした表情が胸を突いた。男子生徒は気まずそうに襟足を掻き、腰に手を当てていたけれど、その笑顔は眩しかった。
「俺、光坂だ。光坂迅」
「…………花月蒼、です」
「うん、ありがとう花月。なあ、その……俺と友達になってくれねえか」
「…………!」
どうして、と聞くと、迅は笑って答える。その言葉が重なった蒼の色を導いてくれた。
「それはな――」
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