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出張帰りの飛行機の中。平日の最終便、満席の機内はスーツのジャケットを脱ぎ、アルコールを飲む男性の姿が目立つ。見渡せる範囲の女性搭乗者は、赤ちゃんを抱いた若い母親、高齢女性の三人連。仕事帰りの女性は涼子だけのようだ。女性の社会進出が当たり前になった昨今でも、まだまだ男社会の壁は厚いと涼子は思う。つまみのナッツを口に放り込み、ビールをあおる。ふと、右隣の背面テーブルの上に広げられた手帳に目が止まった。隣の男性は20代半ば、見るともなく手帳に挟まれていた写真が目に入る。お腹が大きな女性と、小さな男の子が笑顔で写っている。その手帳の持ち主は、涼子が写真を見た事に気付いたようだ。偶然見えてしまったとはいえ、ここで知らん顔をするのは、この後数時間フライトを気まずくさせると思い涼子は話しかけた。
「可愛いお子さんですね」
隣の男は顔をほころばせた。
「ありがとうこざいます。まだまだ、甘えん坊で」
「おいくつですか?」
「2歳です。もうすぐお兄ちゃんになるんですがね」
男も仕事帰りだろう、手にしたビール缶を手で遊ばせ、幸せそうに笑った。涼子は残りのビールをコップに注ぎ入れた。
「お二人目はどちらですか?」
「女の子です。妻は喜んでますよ。今から一緒に買い物したり、お茶したりするのを楽しみにしてます。僕は女の子には甘くなりそうな気がして……」
男はまた、幸せそうにはにかんだ。
二人は見知らぬ者同士の気楽さで話を続けた。涼子はアルコールの影響か、男の柔和な態度のせいか、いつしか心を許し、男に悩みを打ち明けていた。涼子は今人生の決断を迫られていた。3年付き合っている彼からプロポーズを受けていたが、その返事を迷っていた。彼の事は好きだけれど、仕事と家事の両立、その上に子育て。今の生活を維持していくのは難しいだろうと考えていた。なにより仕事が面白くなってきた事が涼子の心を揺らしていた。男女平等と言われて久しいが、まだまだ女性の選択肢は少ないと感じる。男は『参考にはならならいかも』と言ってから
「仕事でなかなか会えないですが、僕は家族を持って良かったですね。帰る場所があるっていいですよ」
と言って優しく笑った。
その時突然、機体がグワンと真下に落ちるような衝撃があり、斜め前方に座っている若い母親が『キャッ』と短い悲鳴を上げた。その声に驚いたのか、眠っていた赤ちゃんが泣き出した。母親は必死にあやし、泣き止ませようとしているが、飛行機の揺れのせいか、母親の不安感を察してか、なかなか泣き止まない。周囲に恐縮する母親に舌打ちする者や、あからさまに文句を言う者がいた。その時、高齢女性の三人が口々に
「赤ちゃんは泣くのが仕事」
「元気な証拠よ」
「元気ないい子ね」
と口々に囃し立てた。涼子も思わず
「そうですよ。揺れたらびっくりするのは子供も大人も同じですよ」
と叫んでいた。そのお陰で舌打する者や、文句を言う者はなりを潜める事となった。母親は高齢女性の三人組と涼子の方を見て深々と頭を下げた。暫くすると、赤ちゃんの泣き声は聞こえなくなった。また眠ったのだろう。
それから少しの間安定飛行が続いていたが、また機体が激しく揺れ始めた。
「揺れが酷くなりましたね」
と隣の男が涼子越しに窓の外を見た。涼子もつられて窓の外へ目をやるが、すでに日は沈み真っ暗な空間に涼子と隣の男性の顔が映し出されただけで、外の様子は分からなかった。ふと、男性の顔に見覚えがある気がしたが、その疑問は機体の揺れにかき消された。
「乱気流ですかね」
弱々しい口調で涼子は呟いた。涼子は飛行機が苦手だ。激しく揺れる続けると不安になる。男はそんな様子に気付いたのか、妙な提案を始めた。
「おまじないなんみたいなものですけどね。もしも、自分に何かあったら、誰に何を伝えたいかって事を考えてみるんです。そうすると、不思議と無事に帰宅できるんですよ」
そう言って、手帳のメモ用紙を一枚破り涼子に渡した。一瞬『縁起でもない』と涼子は思ったが、男が手帳にサラサラと何か書く姿につられて考え始めた『誰に何を』
涼子が目を覚ましたのは、飛行機が着陸する直前だった。アルコールのせいか眠ってしまったようだ。右隣を見ると男性は跡形もなく消えていた。荷物もない。トイレに席を立ったのかと思っていたが、とうとう男は戻らなかった。不思議に思ったが、何らかの理由で空席へ移動したのだろうと思い空港を出ようとした時、あの赤ちゃんを抱いた若い母親が声を掛けてきた。
「あの時は、大変お世話になりました」
子供は母親に抱かれスヤスヤ眠っていた。
「かわいいお子さんですね」
そう、挨拶を交わして帰ろうとした時、ふと隣の男性について何か覚えていないか訊いてみようと思い付いた。
「お隣の方ですか?多分始めから、空席だったと思います。満席の中一つだけ席が空いているのが気になっていましたから」
と若い母親は空席だったと断言した。涼子はここで押し問答しても仕方が無いと思い、渋々家路に着いた。
家に帰ると夜中なのに母は珍しく起きていた。涼子は母と二人暮らしだ。父は10年前に他界し、兄は結婚し別の町に住んでいる。母が入れてくれたお茶を飲みながら、隣の席の男の話をした。
「その人のおまじない、お父さんと同じね」
と母は言って本棚の奥から父の古い手帳を出してきた。涼子の父は商社の営業マンだったので出張が多く、一緒に過ごした思い出は少ないが、家にいるときは兄や涼子とよく遊んでくれる優しい父だった。
手帳を開くと写真が一枚出てきた。20代前半のお腹が大きな女性と、小さな男の子が笑っている。色褪せてはいるが、確かにあの時、隣の男が見せてくれた写真と同じだった。
「お父さん、こんな所に挟み込んでたのね。これ涼子が生まれる前に旅行に行った時の写真よ。お兄ちゃんがまだ2歳だったかな」
と母は懐かしそうにしている。手帳を開くと一枚破ったその後の頁に『生まれてくる子には涼子と名付けたい。爽やかで聡明な女の子に育って欲しい』と書かれていた。
「お父さん、出張が多かったでしょ。時々、危ない目にも合ったみたいよ。その時のこんな遺言みたいなのを書くと無事に家に帰れるって言ってたわ」
と母は微笑んだ。それを見て涼子は心を決めた。
「私、迷っていたけど結婚する事にしたわ」
母は嬉しそうに頷いた。
30年後、涼子は息子とそのパートナーの男性とビデオ通話をしていた。
「母さん、初孫だね」
と言う息子の腕には養子縁組をした赤ちゃんが眠っている。幸せそうな3人家族に
「おめでとう」
とお祝いの言葉を送り画面を閉じた。続けて涼子は保険会社に電話を入れると、呼び出し音の代わりに音声広告が流れた。『私たちは、お客様のお子様が家族を作り子孫を繁栄させるお手伝いを致します。万が一お子様が『お一人様』を貫こうとされた場合、お子様の趣味嗜好を細かくヒヤリングしオーダーメイドのストーリーを作成いたします。お子様が家族を持ちたいと無理せず思えるようにお手伝い致します。保険料はお子様が産まれたときから積み立ていただき……プルルルル』
「お待たせ致しましたお客様」
オペレーターの事務的な声が応答し、保険証券番号と本人確認を促した。
「ご利用もありがとうございました。この度の保険執行はご満足頂けましたでしょうか?」
「父が掛けてくれていた保険を母が執行してくれて家族を持つ事ができたから、息子にもと思って掛けてきた保険が役に立ってよかったわ。息子の場合はレアケースだったと思いますが、息子にも家族を持たせることができて大変満足しています」
「ご自身が被保険者様だった方のご利用でしたか、ご満足頂き何よりでございます。しかし、息子様の様なケースは最近では珍しくはございません。むしろ、急増しているケースです。多様化の時代と言われて久しいですので。ところで、今回と同様の保険をお孫様に掛ける事もできますが、いかがなさいますか?」
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