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序
六本木に漂う夜の空気はまだ夏の余韻を残している。
裏通りに停めたベンツの運転席で、木崎丈二は街の喧騒の気配を遠くに感じながら、タバコの煙を窓の外へと吐き出した。
ヴァシュロンのオーヴァーシーズが、タバコを持つ右腕にずしりとした重みを与える。銀色の秒針が闇に紛れて規則正しく動く様子を、丈二はぼんやりと眺めていた。
「いいよな、お前は」
助手席から聞こえた野口隼人の声はため息交じりで、どこか投げやりだった。
二人きりの車内で持て余している以上、その言葉の意味を掘り下げないわけにもいかず、丈二はもう一口タバコを吸った。
「いいって、何が?」
「だって将来約束されてんじゃん。今や黒岩組の木崎つったら、不法滞在中のメキシコ人だって知ってるぜ?」
「お前メキシコ人に知り合いいんの?」
「いない。こないだヤク捌いた大学生から聞いただけ」
隼人は口を尖らせながらそう言うと、ドリンクホルダーに置いていたじゃがりこを一本取り出しボリボリと食べ始めた。
静かな社内に響くその豪快な咀嚼音に、丈二はうるせぇよと思いながらも、おもむろに自分をひがみ始めたこの同僚に今それを伝えるのは何となく面倒な予感がしてやめた。
「だってさぁ、それだって会長からもらったんだろ?ありえねぇよな」
隼人がじゃがりこで丈二の右腕を指す。ヴァシュロン・コンスタンタンの定番モデルも、じゃがいものスナック菓子で『それ』呼ばわりされる筋合いはないだろう。
「俺なんて顔も覚えられてねぇのに」
「酔った勢いで貰っただけだよ。貰ったっつーか、その場で外して渡された」
「余計すげぇよ、白い巨塔みてぇじゃん」
「は?」
「何かあったんだよ昔ドラマでそういうシーン。唐沢寿明が、あのー、あの人に」
隼人は相手の俳優の名前を思い出そうと、あーとかうーとか唸り始めた。
それは上層組織である城西会幹部の結婚式に出席した時のことだ。二次会が行われたクラブで水割りを作っていた際、機嫌の良かった会長は丈二を手招きし、自らの腕時計を外して丈二にポイと投げて寄こしたのだ。
その瞬間、事態を把握できず、丈二は胸元で受け止めた金属製のそれが腕時計であることさえ気付かなかったが、途端に周囲の構成員たちの間に流れた緊迫と驚き、そして嫉妬が一緒くたにどろっと溶け出したような雰囲気から、その意味を理解したのだった。
一瞬の出来事ではあったが、重苦しく転じた場の空気を、古参幹部のしゃがれた笑い声が打ち破ったことで、丈二は思い出したように「ありがとうございます」と口にし、突如転がり込んできた超高級腕時計を隠すようにポケットへと突っ込んだ。掌が汗でじっとりと濡れていることを感じていた。
「黒岩んとこも、良い若手が育ったな」
古参幹部に水を向けられ、丈二の所属する黒岩組の組長・黒岩克己はまんざらでもなさそうな笑みを浮かべている。
「金勘定に明るいだけなら可愛くはありませんけどね、俺がこの男を気に入ってるのは、心が無いところですよ」
そう言ったのは、黒岩の隣に座していた三島聡だった。元来鋭い眼差しを丈二に向けると、浅黒い鮫肌を歪ませるように口角を上げた。
金勘定に明るい、とは丈二が現在8件の飲食店経営に成功し、組の資金繰りに一役も二役も買っていることを指している。本来であれば若手のひとりに過ぎない丈二が、こうして幹部連中の揃う場に呼ばれているのも、経営という才覚が上層部に知れ渡っているからこそである。
兄貴分である三島の眼光に射抜かれた丈二は、三島の手元に置かれた水割りのグラスにびっしりと付いた水滴を布巾で拭い、視線を逃れた。自分を見出してくれた恩人ではあるが、過去に数人の部下を容赦なく刑務所送りにしたこの男の腹の底を、丈二は未だに知ることができずにいる。
三島の『心が無い』という言葉に込められた自分への思惑を計りながら、丈二は会長が皆の前で投げて寄こした高級時計を呪った。
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