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「ただいま」
違和感は膨れ上がり、”嫌な予感”へと姿を変えた。
「ただいまーっ」
少し大きめの声で、もう一度言った。だが、何も音沙汰がない。
今までこんなことはなかった。動きが鈍くなってきている最近ですら、俺が帰ってくるとカタカタと危うげな音を鳴らしながら、”妻”は玄関までやってきていたのだ。全部で何種類か把握しきれない様々なパターンの”おかえりなさい”を言いながら。
おそるおそる玄関の明かりを点けた。だが、そこには誰も、何もいない。
出かける時に、間違えて仕掛けのスイッチを切ってしまったのかもしれない。電気のスイッチのすぐ下にある古ぼけたスイッチを押した。だが、同じだった。何も、誰も、うんともすんとも言わない。
”嫌な予感”は、”嫌な推測”を生み出す。
俺は荷物をその場に置いて、寿司桶だけ持って、リビングのドアを開けた。
真っ暗ながら、どこかいつもと違うのがわかる。
音がしたからだ。
家の外からは聞こえなかったが、今ならばはっきり聞える、水音が。
音の主はすぐにわかった。流し台で、水が出しっぱなしになっていたのだ。
そういえば、出かける時間ギリギリになってしまったから、皿洗いは任せてしまったのだった。だから水を出しているのはすぐにわかった。だが、どうして今も流れているんだ?
流し台の方を見ると、天井から吊り下がったアームが皿を掴んだまま動きを止めていた。洗剤がついていたであろうスポンジと共に、ただただ水道から流れる水が皿を洗い流し続けていた。
いつから――?
水を受けすぎて、皿もスポンジも、泡など少しも着けていない。水切り籠には、朝、俺が使った皿が1枚とコーヒーカップが置かれており、すでに渇いていた。流しの横には、別の皿と卵焼きを作るのに使ったフライパンが、洗われないまま、ぽつんと置いてあった。
蛇口を捻って、水を止めた。
急に流れを止めた反動か、静かな室内に、きゅっという音が必要以上に大きく響いた。
水を止めたら、今度こそ本当に、何の音も聞えなくなった。
俺も、何も言えなかった。
何も言えない代わりに、天井から幾本も伸びていたアームを眺めて、そっと撫でた。
真っ暗な中でも、アームの一本一本が見えた。どれも、中途半端なところで動きを止めていた。
洗い終わった皿を水切り籠に並べようとしているもの、次に洗う皿を掴んでいるもの、皿を流しの横に置いて去ろうとしているもの……。
どれも、ついさっきまで動いていたポーズで止まっていた。
動きを止める直前まで、働き続けていた。
そんな”妻”に、かけられる言葉など、1つしか思い浮かばなかった。妻が毎日毎晩かけてくれた言葉だ。情けないことに、ようやく、その言葉をかける時が来た。
だから、震える喉をひきしめた。どれだけか細い声になろうと、震えた声になろうと、”妻”にこの言葉をかけなければならないと、思ったのだ。
「ご苦労様」
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