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「ふぅ……」
思わずため息がこぼれた。
何かに辟易して出たものではない。ちょっと疲れただけだ。その疲れも、仕事が思うように進まなかったときの重苦しい疲れではない。
開放感に満ちた、軽やかな、それでいて少しだけ寂しさも含んだため息だ。
既に辺りは暗くなっている。今日は早く帰ると言ってしまったのに、やはりこうなった……。今日に限って……いた、今日だからこそ、元部下や後輩たちに引き留められ、なかなか帰してもらえなかったのだ。
予定より30分近くも粘って飲みに誘われ続け、後日改めて集まるという約束をして、ようやく解放してもらえた。やれやれと思ってしまうが……これもまた、嬉しい悲鳴というやつだろう。
背中に通勤バッグを背負い、両手に紙袋や花束を目一杯抱えて、家路を急いだ。早く帰らなければと思えば思う程、腰や足が痛み出す。ちょっと無理をしてしまっている分、明日から2~3日は呻きながら過ごすことになるだろう。
様々なことが頭に浮かぶ中、ようやく我が家の姿が見えてきた。その門前には、やはり思った通りの人影が立っていた。
「あ、ご主人! 良かった、帰ってきて……!」
馴染みの寿司屋の店員が、心底ほっとしたような表情を浮かべた。
数年前からずっと、出前の時はこの青年が来てくれる。もう何年も修行していて、それなりに腕を上げているようなのだが、後輩が定着せず、未だに一番下っ端のままなのだと、いつかぼやいていた。俺としては、この気さくな青年が来てくれるのは嬉しい事なのだが。
「悪かったね、遅くなって。ちょっと会社を出づらくて……」
青年は、俺の両手一杯の荷物を見て、何かを察したらしい。不安が交ざった表情がふわりと消えて、爽やかに微笑んだ。
「いいえ、その……お疲れ様でした」
「ありがとう」
思えば、5年前の今日も、この青年が寿司を持ってきてくれた。同じ日に、同じ人が、同じものを持ってきてくれる……何やら感慨深いような、言葉にしがたい温かな気持ちが湧いた。
「いえ、こちらこそ、いつもご贔屓に。その……一人暮らし……ですよね?」
「ああ」
まさか、家のことがばれたのだろうか。この家のからくりについては、他人には知らせていない。この青年をはじめとして、社の人間にも、近所の住民にさえも。
それでも最近ネジが外れたりしてガタガタ大きな音を鳴らすことが多くなってきた。そろそろ隠してはおけなくなってきたか……。そう思ったのだが――
「いえ、いつも2人前頼んでくださいますよね。よっぽどお寿司好きなんですね」
「え? あ、ああ……そうなんだ。お宅のはまた、美味いから」
「ありがとうございます!」
青年は、朗らかに笑った。どうやら杞憂だったようだ。
「それにしても、今日は静かなんですね」
「……え?」
青年は、微笑んだままちらりと我が家に視線を送った。
「いえ、お宅の前を通ると、だいたいいつも何かの機械みたいな音がしてるんです。だけど今日は静かだなって思って……あ、うるさかったとかじゃないですよ!」
青年は、俺の驚いたような顔を見て、気を悪くさせたと勘違いしたのか、深く頭を下げて、そそくさと立ち去った。
俺はというと、それほど気を悪くはしていなかった。だが、何かひっかかりを感じたのは確かだ。ただそれは、こうしてここで大量の荷物と二人前の寿司を抱えて突っ立っていても何もわかるはずがないことだ。
俺は荷物をもう一度抱え直して、玄関の戸に手をかけた。
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