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キッチンの水道……最近は蛇口が固くなってきて、回すのが少し辛くなっていた。新しいタイプのキッチンにリフォームしてしまおうかと考えたが、やめた。妻が設定したプログラムは、この蛇口をきちんと回して水を出したり止めたりするようになっていた。リフォームしてしまうと、きっと”妻”が困ってしまう。そう思って、そのままにしていた。
タブレット端末……妻の声を届けてくれた最たるものだ。言わずもがな、この端末を変えては二度とこの仕掛けを動かす設定ができない。つまりは何もできなくなるし、止めることもできなくなる。こういったデバイスの寿命は5年と言われているが、それを圧して10年もの歳月、頑張ってもらった。
洗濯機……これは洗濯機能が一度故障してしまったから、さすがに買い換えた。同じメーカーの後継機の、なるべく同じボタン配置のものを選んだのだが、やはりうまくはいかなかった。だから洗濯については自分でやるようになった。思えばこれが『自分でやる』ボタンを作るきっかけになったのだった。
出前アプリ起動のプログラム……これは、ずっと変わらなかった。いつだって、寿司を頼めば2人前注文する。それには理由があった。いつも注文していたあの寿司屋は、出前の時は2人前からしか頼めなかったのだ。だから妻は、デフォルトで2人前を注文するように指定していた。
だけど”妻”は知らない。あの店は、最近では1人前から注文できるように変わっていたのだ。配達の青年が不思議な顔をするわけだ。
その常に2人前注文するという設定を、俺では変更できなかった。だから”妻”は、今もこうして2人前を頼むのだ。こんな年寄では、到底食べきれないのに。2人でなければ、食べきれるわけがないのに。
”妻”は、あの頃と変わらない。思いやりに充ちていて、何でも出来て、よく気が利いて、明るくお喋りで……だが、1つだけ欠点がある。
妻は、いつも俺を置いて遠くへ行ってしまう。
嘆くことはきっとない。あの時、永遠の別れになるはずだったものが、10年も延びたのだ。他ならぬ妻のおかげで。
嘆くことはないが、俺と妻は、つくづくすれ違うものだと思う。今日こそ、言おうと思っていたのに。
「なぁ、俺は……今日でやっと、定年退職だ。これからは、俺も家のことをして、お互いにゆっくり過ごそう」
暗闇に向けてそう独り言ちても、返ってくる声など、ありはしなかった。
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