ひと月遅れの……

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「ただいま」 『おかえりなさい』  ”妻”の声は、何パターンも録音されているようだった。今日の出迎えは、短いバージョンだ。そんな細かい変化までつけるとは、なんとも手の込んだことだ。  玄関に立つ俺の前に、するするとタブレット端末がやってくる。画面には今日作れるお品書きの一覧が表示されていた。一品料理だけでなく、シチューものまで並んでいる。  ちなみにシチューものは、作った後どうしても2~3食分残ってしまう。残った分をどうするのかと思っていたら、俺が食べている間に、機械たちが手早くタッパーに詰めてさっさと冷凍庫にしまっていた。これには驚愕したものだ。  そんなわけで冷凍分が残っている時は、お品書きに『ビーフシチュー(冷凍)』というボタンが追加される。新しく作ってもらうという選択肢も残されているが、残っているものがあるのにそれは選択しづらい。俺だって曲がりなりにも一人でやりくりしてきた経験があるのだ。それに、今日は何となく少しでも楽をさせてやりたい気分だ。  一昨日あたりに作ってもらったビーフシチューの冷凍のボタンを押し、靴を脱いだ。タブレット端末は『はーい、待っててくださいね』と言い置いてするすると台所に消えていった。  後を追うように居間に入ると、台所では”妻”が仕掛けた機械たちがあれこれ忙しく動き回っていた。俺はダイニングテーブルの上に手に持っていた箱を置いて、自室へ行った。手早く着替えて戻ってくると、シチューの皿を持った機械が、何やら狼狽えていた。皿を台の上に置いたまま、右に左に動いては困ったかのように動きを止めていた。  どうしたのかと戸惑ったが、すぐに原因に思い至った。先ほどテーブルの上に置いた箱のせいで、皿を置く場所がわからなくなったのだ。障害物があると置かないようにしているらしい。 「悪かった」  すぐに箱をどかすと、安心したかのようにサッと皿が置かれた。  こういう咄嗟の出来事には、さすがに対応できないらしい。だがそれもこれも、俺がこういうモノ(・・・・・・)を買って帰ることがなかったせいだ。そりゃあ、妻にだって想定外だったろう。  テーブルの上にはレンジで温め直したシチューの皿に、温野菜が載った小皿、小盛の白飯、そして缶ビールが一本、あっという間に設置された。いつもの、妻の食卓だ。  食卓に着く前に、俺は食器棚から小さな皿を2枚取り出した。そして、俺が持ち帰った箱の中身を、1つずつ皿に載せた。  一つは俺の食卓に、もう一つは向かいの……妻が座っていた席に。皿の上には、小ぶりなケーキがちょこんと載っている。  いつか、妻が言っていた駅前にあるパティスリーのケーキだ。上品な甘さな上に小ぶりだから、いくらでも食べられそうだと言っていた。 「なぁ、覚えているか? あの日(・・・)が何の日だったか」  あの日……妻が亡くなった日……俺が病気の妻を置いて、遠く離れた地で仕事に邁進していた日……その日が何の日だったか、ほんの数日前まで俺は忘れてしまっていた。  家に帰って落ち着いてから、ようやく妻の携帯を見てみると、同じ番号から何度も電話がかかっていた。かけなおしてみると、件のパティスリーだった。妻は、ケーキを予約していたらしい。 「あの日は、結婚記念日だったな」  妻のことだから、写真を送るつもりだったんだろう。もしくはテレビ電話にして、食べているところを実況中継でもするつもりだったんだろうか。ホールケーキ丸々なんて、食べられるわけがないのに。  さすがに今、ホールケーキを一人で食べきる自信はない。だから個別包装の、小さなケーキを買ってきた。どれが一番好きなのか、わからなかったが。 「1ヶ月も経ってしまった……これで、許してくれるか?」  ”妻”が消えた台所に向かってそう訊ねた。  ”妻”は、何も答えずにただ鍋を洗っていた。『許す』とも『許さない』とも、何も言わないまま。
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