石鹸と悪霊

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石鹸と悪霊

 警察隊の一連の行動に問題はない、と当局は会見で述べた。  ある夏、南米ペルーの物語だ。  銃撃戦はリマの下町で起きた。もし観光で訪れたなら、一度は通ってみるかもしれない裏道だ。  住宅地と商店が特に過密する場所にアジトはあった。大量殺人事件の容疑者たちが起居する場所だ。  踏み込んだ警察隊は発砲し、昼食時だった容疑者たちをほぼ全員殺害した。  さらに民衆の怒りを買ったことに、警察は殺戮の事実を隠蔽しようとした。目撃証言や報道と異なる逸話をでっち上げたのだ。公的な会見で、警察隊との「銃撃戦」で容疑者らは死亡した、と報告された。  わずかな生き残りである容疑者のうち数名は収監され、取り調べを受けている。  各種メディアが報道の手掛かりはないかと警察本部周辺を抜け目なくうろついた。彼らが熱心になるには理由があった。  死亡した容疑者たちを含めた十三人の男たちは原住民や町民を六〇人余りも殺害した。目当ては、脂肪や人体組織だった。特に脂肪で石鹸を作り、共犯者である欧州の化粧品研究所に売りさばくことに注力した。人間石鹸の密売だ。  ペルーの神話に登場する悪霊ピシュタコにちなみ、この事件はピシュタコ事件と呼ばれた。  ピシュタコは、アンデス山脈の原住民を殺害し、体から脂肪を吸引する。そして石鹸、潤滑油、薬用軟膏を作り出す。  ピシュタコの伝承そのものは植民地時代から見られる。往時のピシュタコはキリスト教徒や外国人の姿をしている。戦時中は政府軍の姿をとることもあった。  ピシュタコは農民達にとって外界の他者とその暴力を表象する。  ブレーキをかけた車内で私は『ペルーの民間伝承』を閉じる。  ページに落ちたパンくずを払い脂ぎった指をシャツで拭う。同じ指でこめかみを掻く。窓を開け放った車内でも汗がにじんだ。連日の真夏日だった。  運転手に礼を言い、車から降りる。  記者が駆け寄るってくる。事件について、警察の不祥事について、何か一言。彼らを除しつつ建物へ入る。デスクに座り、部下の要約した書類に目を通す。  その男の身柄はすでに確保されていて、逃亡の心配はなかった。  ピシュタコ事件の容疑者の一人だ。首謀者のうち唯一の生き残りでもある。警察が銃を乱射した日、ラボに一人いて助かった。  アジトの一角に作られた汚い研究室で、彼は石鹸作りの最中だった。警察隊が踏み込んだ時、脂肪を抽出する機器からは人毛がのぞき臭気を漂わせていた。  彼ら生き残りの証言で、警察は市民の不信感を拭わなければならない。取り調べが連日続いている。取り調べという名の自白の強要だが、私の関知するところではなかった。  私の仕事は客観的な証拠から、彼の動機を明らかにすることだ。  いくつか電話をかける。  猟奇的なこの事件は国中で報道されていた。捜査に協力してくれる人間を探すのは容易だった。  約束の場所に向かいながら私は考える。    なぜ人の油で石鹸を作ることに固執したのか?  人の油が最もよく汚れを落とすから。  汚れを落とすことに執着するのはどうしてか?  外界の脅威に対抗するため。  彼とのやり取りを記録した調書にはそう書かれていた。  この時、私はまだ彼と会っていなかった。いずれ会うことになるのだが。  彼についての知見を集めておきたかった。それがいつもの私のやり方だからだ。  新聞屋の前に妙齢の女性が立っている。動機を調べている容疑者の同窓生だ。私の調査に貢献してくれる。  会釈し、来てくれたことに礼を言う。強い日差しの下、広い公園を歩く。天気や地域の出来事について話した。  丁度良い日陰に入ったところで本題に入る。  彼はどんな少年でしたか?  質問に女性は瞬時、口ごもる。  いじめの対象でした。毎日垢のにじんだ同じ服を着ていたので。貧乏で変わり者でした。クラスのリーダーにつっかかっては打ちのめされて。  私の中である記憶がよみがえる。  取り調べ中、彼がトイレに行きたいと言ったときのことだ。警官を付き添わせトイレへ行く。彼は上着を脱ぎ、洗面所の石鹸で洗い出した。警官の制止に彼は行った。  シャツが不潔だ。我慢ならない。  女性に礼を言い、別れた。  彼はいつから潔癖症なのだろう。いつから汚れを落とすことに執着しているのか。「外界の脅威を排除する」ことへの情熱はどこから来るのか。  夏は細菌が繁殖しやすいだけでなく、身体の抵抗力が低下して菌に侵されやすい。  政府は毎年のように食中毒だの蚊を媒介とする感染症だのを警告している。食堂のラジオも、手洗いを励行します、生肉はよく加熱を、と流している。  天井で回っているファンに留まった蠅がこちらをうかがっている。いつもよりまずい気がした。レアのステーキをほおばっていた私はフォークを置く。  次の日、会う約束を取り付けたのは、彼の義理の母だった。  真夏日の連続記録を更新した正午、私達は彼女の家で会った。容疑者が大学生まで過ごした場所だ。継母が玄関の扉を開ける。真夏日というのに化粧崩れなどしていない。  欠点なく調度品が揃い、整頓されたリビングに通される。  彼女が淹れたコーヒーを飲んで、話を切り出す。  いきなり失礼ですが、お子さんとの関係について教えてください。  継母はよどみなく答えた。あらかじめ答えを用意してあったかのように。  彼は養子です。夫が自分の妹の息子である彼、甥を引き取ったのです。    本当の母親はお亡くなりに?  それには複雑な事情があります。  以下は継母から聞いた話だ。  彼の実母はシングルマザーだった。駆け落ちの末、未亡人になったのだ。生計を立てるため娼婦をしていた。  ある日彼女の父親が死に、出奔した彼女に遺産が入ることになった。途方もない額だ。死んだ父親は兄よりも妹を愛していたからだ。  兄は遺言を実行させまいとした。妹が手に入れるはずの父親の遺産を狙って、彼は行動に出た。妹の息子、少年だった彼の養育権を巡って裁判を起こしたのだ。法廷で彼は言った。  垢にまみれた服を着せ、頭にはシラミが沸いている。母親に保護責任者能力があるとは言えない。  遺産が手に入る前だった母は貧困の極みだった。弁護士を雇う金もない。裁判に負けるのは必然だった。  兄は父親の遺産と幼かった彼を手に入れた。彼は母の兄である伯父とその妻の元で養子とし育てられることになった。実母はしばらく経って梅毒で死んだという噂だ。  兄は妹を「汚い暮らしをする汚い女」と呼んだ。  私は継母の話を全て書き取った。  話を終えると、継母は子供部屋を見せてくれた。彼が家を出てから手を付けていないという。 机、ベッド、クローゼット、本棚。本棚には科学の辞典と百科事典。部屋を彩るポスターやこまごまとした雑貨たち。  何の変哲もない部屋だ。変哲が無さすぎるように私は感じた。  部屋に置かれた物からは一切の試行錯誤、挫折、苦悩が見当たらない。気味が悪いほど調和がとれている。炎天下に化粧崩れしていない継母の笑顔のようだ。  私は礼を言い、屋敷を後にした。車でオフィスへ戻る途中、清浄な空気を吸いたくなる。  クリーンな継母。クリーンな家。クリーンな部屋。  警察本部に戻り足で稼いだ調査をまとめる。尿意を催してくる。しばらく我慢した後、トイレに立った。  トイレには同僚が一人いた。挨拶をする程度の仲だ。私たちは用をたす。先にいた彼はチャックをあげ、便器を離れた。そして出て行った。手を洗っていない。その不潔な事実に強い嫌悪感を抱く。私は擦りガラスの向こうに消える影を睨んだ。  仕事を終え、帰途につく。蒸し暑い熱帯夜だった。  大通りに並んだ住宅地の影から男が一人現れる。顔に覚えがある。職場をうろついている週刊誌の記者だ。  彼はピシュタコ事件の真相を知りたがった。丁寧だが執拗な口調で聞く  残酷な事件ですが、犯人の動機は何ですか。警察の発砲に対する市民の反応をご存じですか。この不祥事についてどう説明しますか。  半キロほど追いすがり、まとわりついて離れない。私は苛ついて話すことは何もない、と言おうと振り返る。何らかの言葉を期待した記者は書き留めるつもりで、指を舌で舐めて帳面を繰る。汚い。胸をどす黒いものが通る。  「捜査の邪魔はよせ」  冷たい口調で私は言った。不意打ちに記者は苛ついた笑いを浮かべる。口角の上がる角度がプライドの高さを表している。  「何がです?」  馬鹿にした口調で言う。私はお返しに軽蔑した一瞥をくれてやる。私たちはしばしにらみ合った。  記者は憮然として立ち去る。去り際、彼は一度振り返り、怒りの表情でこちらを見た。  帰宅し、簡単に食事をとった後就寝する。心中穏やかでなかった。普段気にならない些細なことが気になる。果物の汁と埃が固まっているゴミ箱の側面や、塵でざらついたシーツの肌触りが。  その夜は悪夢を見た。  怪物に襲われる夢だった。怪物と言っても実体はなく、目には見えない。しかしそれがいると分かった。毛穴から、爪の隙間から、瞼から、いたる所から潜り込んで身体中を小さな歯などでむさぼるのだ。私は恐怖に夢の中で煩悶し、のたうち回り、絶叫した。 寝汗をかいて目を覚ます。再度シャワーを浴び、朝日が昇るまでまんじりともせず過ごす。    彼に会ったのはその日の正午だった。  凡庸な服を着た凡庸な男だった。街を歩けば数百メートルに一度はすれ違ったと感じる、記憶に残らない顔だ。しかし私は職業柄、容姿が問題ではないことは分かっている。凶悪犯として私の前にやってくる常識人を幾人も見てきた。彼らは現代人の皮をかぶった中世の狂人だ。野放しで、愚にもつかぬ蛮行をする。  私たちは事件について前提知識を確認しあった後本題に入った。  「仲間たちが殺人から手を引こうと言い出した時、君だけが反対したのだね」  「はい」  「君は石鹸を作り続けることが目的だった。大切なのは石鹸を作ることだ」  「そうです」  彼はよどみなく答えた。ここで、決定的な質問をする。  「石鹸にこだわるのは、君が潔癖症だからかな」  彼は黙りこくる。そして丁寧に否定した。  「僕は潔癖症ではありません。黴菌に襲われているんです」  無理解を憐れむかの口調だ。私はその態度から逆に確信を得た。精神病的防衛機制の一種、否認だ。彼は事実を認めたくないのだ。しかし決定的な証拠が欲しい。  「君が潔癖症か否かについて、はっきりさせたい。医師の判断を仰ごう。重度だったり併発したりしていれば、情状酌量の余地もある」  「病気じゃない。外界の脅威に対抗するためだ」  彼は静かに、しかし断固とした口調になる。  「診察はすぐ済むよ」  「これは思想だ、哲学だ」  「そうかね」  私の冷淡な口ぶりに、前のめりだった姿勢を彼は正す。継母ゆずりのクリーンな笑顔だ。  「清潔は敬霊に近し、ですよ」  これ以上話すことはない。彼との対話を終え、部屋を出ようとして、ドアノブを凝視する。立ち止まった所を後ろから同僚にせかされ我に返る。見えた気がしたのだ。取っ手にはびこる細菌の存在が。  彼の部屋に行くことは気乗りしなかった。私の中でここ数日、加速しているある思念の歯止めが利かなくなる気がしたからだ。しかしその思念が何かは、はっきりととらえることができなかった。  集合住宅が乱立する開発区域に彼のアパートはあった。  カギで中に入る。  部屋は家宅捜索の後で異様さが増していた。大小様々なビニールが床に落ちている。かつては部屋の持ち主によって全ての家具を覆っていた。  部屋の主を待つ空気清浄機と自動掃除機たち。各部屋に配置された消毒液のボトル。  棚を開くと掃除道具が各種取り揃えられている。彼がこの種の蒐集家だったことは明らかだ。こびりついた汚れを削る大小のブラシとヘラ、水垢を落とすアルカリ性洗剤、大型の高圧洗浄機。道具たちのおかげで部屋は汚れひとつ見当たらない。  一番大きな部屋のテーブルには様々な道具が放置されていた。  大小取り揃えた遮光瓶が転がっている。中身は白い結晶状の薬品だ。油紙の束が紐で結ばれたままになっている。耐熱ガラスのボウルには攪拌棒がもたれ、精製水の空の容器も並んでいる。大きなガラスの容器に入った黄金色の液体は油だ。  私は油の容器を持ち上げ、静かに振ってみる。  石鹸を作るための器具たちだ。家でも研究に勤しんでいたというわけだ。  彼は間違いなく潔癖症で、それは不潔な子供時代の反動からくるものだ。犯罪に加担したのも、最も汚れを落とす人の油を利用して最高の石鹸を作るためだ。  「外から黴菌に襲われている気がする」。潔癖症のセオリー通り、彼もあらゆる外界からの穢れを恐れている。神話で、農民が外界の敵であるピシュタコを恐れたのと同じように。  しかし彼の行き過ぎた情熱は、彼をピシュタコにもした。汚れを恐れるあまり人の脂肪を奪う結末へとたどり着いたのだから。  つまり彼は神話における農民でありピシュタコといえるだろう。また、狂気的なまでに清潔を求める心理には信仰のようなものすら感じる。  部屋を去り際、消毒液のノズルを押して手のひらに少量出し、手をこすり合わせる。これでドアノブを掴むことができる。私の呟きが部屋に残った。  清潔は敬霊に近し。  腹を空かせていつものレストランに入る。  いつものレア?  ウェルダンで。良く焼いてくれ。  新聞に目を通す。肉の焼ける良い香りがする。  ウェイトレスが肉の載った皿とカトラリーの籠を持ってくる。  私は鞄から小さな袋を取り出した。  そいつは結構だよ。  袋にはプラスチックのフォークとナイフが入っている。  これで夕食を安心して食べることができる。  不潔に勝つためなら、手段は選ばない。  ピシュタコ事件を巡る言説はその後も飛び交い、勢いを増すばかりだった。自白の強要があった、嘘の証言をしていた、杜撰な捜査だった、そもそも押収された脂は人間のものではなかった等々。  一瞬、秋風が吹いたように感じた朝だった。当局はついに正式声明を発表した。ピシュタコ事件をめぐる一連の疑惑を事実であると認める。警察隊による無抵抗な市民への発砲は誠に遺憾であり、今後このようなことが起こさないよう厳重に対処していく、と。  結局、事件は曖昧な形で立ち消えた。  最後に彼を見たのは釈放の前日だった。念願のカミソリや身の回りの物を支給された彼は、髭を落としてクリーンな笑みを浮かべていた。  最後の取り調べに同行した私は、形式上の質問をいくつかした。時間になり、私達は立ち上がった。  刑事や捜査官がドアを開け、部屋を出ていく。  私の番がくる。  私はドアノブと向き合う。あらゆる菌と指紋にまみれている。汚辱をまとう小さな怪物だ。  ドアが閉まる。後ろで彼が言う。  そのドアノブなら平気ですよ。消毒済みだ。  この事件に関し、精神分析医としての私の仕事は終わりだ。事件に関する手記もここまでだ。帳面を閉じる。  シャツで塩のついた手のひらを拭き、油じみた椅子から立ち上がった。  レストランから出ていこうとする。盆を持ったウェイトレスが私にぶつかる。盆のコーヒーがこぼれて背広に染みを作る。彼女は礼儀正しく謝罪をし、私はそれを受け入れる。クリーニングに出すという申し出を丁重に断り、店を出る。そして胸ポケットに入れた事件の帳面が無い事に気が付く。  数日後、週刊誌が特集を組んだ。ピシュタコ事件の首謀者にして容疑者である彼に関してだ。養子になった経緯や青春時代、清潔に対する彼の妄執について詳述していた。民衆はこれを喜んだ。昨今失われつつある真理への渇望、狂科学者ホセ・デルガードの再来、陰のあるダークヒーロ―…。おかげで週刊誌は飛ぶように売れた。  釈放後、彼は依頼を受けて自叙伝を書き、講演会を開き、番組に出演している。民間伝承にあやかりピシュタコと呼ばれ、トルヒーヨの豪邸で今も暮らしている。  油、オルトケイ酸ナトリウム、精製水を規定の分量に計る。  手袋は二重にはめ、メガネとマスクをする。  オルトケイ酸ナトリウムを水に注ぐ。跳ねないよう慎重にかつ確実に撹拌する。  薬品が溶けきったら油を静かに投入する。金色の油は白っぽいクリーム色にする。  型に生地を流し込む。風通しがよく静かな場所において乾燥させる。これで油に馴染む親油基と、水に馴染む親水基から構成される石鹸が完成する。  顔を近づけると油のにおいがする。
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