二、おりょう

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二、おりょう

おりょうは権助の家の娘だ。齢は十七。娘盛りを絵に描いたように可憐で溌溂とした向日葵の花の様な娘だった。 おりょうが色白の肌を肘上まで惜しげもなくまくり上げ、永らく埃を被っていた暖簾を店に掲げたのは、権助が店仕舞いをしてからまた半月後の事であった。 「おう、おりょう、久しぶりじゃあねえか。めっきり姿見せねえと思っていたが」 これから仕事に向かうのであろう若い飛脚の男がいったんは行き過ぎたが、戻ってきて、足踏みしながら枯茶の引き戸を開けていたおりょうに声をかけた。 「準備ができたんでね。また寄ってください」 おりょうは雪のように白く美しく並んだ歯を見せて笑むと、傍らに置いていた暖簾を掲げた。“権助蕎麦”の文字が昇って来た太陽に照らされ、はためいた。 「おう、今度はお前さんが蕎麦屋、始めんのか?そりゃ、たまげた。仲間声かけて食べに来なきゃな」 「よろしくね、玉吉さん」 かつて看板娘であったおりょうは明るく笑うと、今は店主として、手を挙げて去って行く男を頭を下げて見送った。男の行く先には抜けるように青い空が広がっていた。おりょうはうーんと伸びをしてから、深呼吸をすると、店に戻った。 店に入ると、おりょうは手を手水につけて、丹念に洗った。そして父、権助から譲り受けた蕎麦粉に小麦粉を混ぜ、少しずつの水を加えながら、心を込めて練り始めた。生地が滑らかになったらひとつにまとめ、また、練る。流れる汗が垂れないように顔周りには手ぬぐいを巻いている。それでも色白の肌には細かく玉のような汗が光り、若い娘独特の艶めかしく美しい芳香を放っていた。 幸いな事に、おりょうは蕎麦打ちを生前、父から教わっていた。 妹みつとともに店を再開する、と父が亡くなってから心労でふさぎ込むことの多くあった母に言うと、眉間の皺を緩め、涙を流し喜んでくれた。 店の中では十歳のおみつが座敷を整えている。 いつも明るく少女らしいおみつであったが、父が常連客の一人の女から誘われて、闇賭博に興じていた、と知っていた時は人が変わったように怒った。もう返事もしない青ざめた父の頬を左拳で殴りつけた。母は震える手でそれを止め、おりょうは後ろでただ静かに身を震わせていた。お父は蕎麦打ちだけしていれば良かったのだ、と声を荒げながら泣きわめくおみつに母もおりょうもかける言葉が無かった。 権助は闇稼業の高利貸から黙って多額の借金をしていた。その取り立ては死後も執拗だった。朝に昼に夕、そして夜半過ぎもどこからか石のつぶてが店めがけて飛んできた。店の前に落ちた石を拾いながら、おりょうはいつしか考えた。父がいなくては店を続けられない。家族三人で食べていく為にどうすればよいか、と。そして、ある晩、おりょうは寝ずに店の前で見張っていて、石を投げていた男を捕まえた。 翌朝、おみつが起きた時、おりょうは寝床から霧のごとくに消えていた。そして今に至るまでの三月半、行方をくらませていた。戻って来た時には借金は無くなっていて、店を開く金も出来ていた。石のつぶてももう飛んではこなかった。 おみつは理由を聞いたが、おりょうは友人のつてを頼り、武家屋敷で奉公していたのだ、と言った。それ以上の事を言わないおりょうに食い下がろうとするみつを母は止めた。おりょうは二人の顔を見つめて、三人で生きていこうね、と言って微笑んだ。 どうしたって生きねば、三人で生きていかねばならないのだ。お父がいなくなっても生活は毎日続いていく。おりょうは三月と半、自分の身を犠牲にしたとは思わなかった。家族と生きていく為にならなんだって出来る。おりょうは自分にそう言い聞かせている。過去は過去だ。過ぎ去っていくものなのだ。 数日後。  幸いな事に新しく始めた“権助蕎麦”は再び繁盛していた。おりょうが打つ蕎麦は権助と引けを取らぬほど、美味かったのだ。 「いらっしゃい」 おみつの声におりょうは振り返ったと共に、その若い男と目が合った。目元の少し吊り上がった、端正な顔の男だった。同じ商人のようだった。 おりょうはその男を見た時、不思議な気持ちになった。仕立ての良い着物を着て、太く凛々しい眉の下には穢れなど寄せ付けないかのように、美しい漆黒の双眸があった。男は自分を見ていた。おりょうは急に総てが恥ずかしくなって、蕎麦を打つ事に集中した。手元は下にあれど、何故かまだ見つめ合っているかのように感ぜられて、おりょうの心の臓は鼓動を速めていた。
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