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三、誠一郎
目が合った時、評判通りの美しい娘だ、と思った。
誠一郎はおりょうと呼ばれるその娘を一目見て、気に入ってしまった。音も色も匂いも急にかき消えた世界から娘だけが浮き上がって見えた。こんな不思議な見え方は産まれて初めての事だった。誠一郎はその蕎麦屋の娘を妻にしたいとさえ思った。
そして今、年若い少女が運んで出来た蕎麦を口にした時の美味さと言ったら。噛み締めた時の食感、飲み込む時のつるりとした喉越し、そして出汁のよく効いた琥珀色の汁。至福の一杯とはこのようなことをいうのだ、と彼は三度の飯がここの蕎麦であっても構わないと思いながら、一滴残さず飲み干した。店を出る時、もう一度娘を見た。娘もこちらを見ていた。
誠一郎の家は海産物問屋を営んでいた。
江戸城にも献上する鰹節、昆布、海藻類のたぐいを卸している由緒ある大店である。誠一郎はその長子であり、三月前に父・文左衛門より継いだばかりだった。ぱりりとした店の紋のついた羽織りを身に着け、店の者達から“若旦那”と呼ばれる自分になり、次は何か大きな事がしたいと気持ちが広くなっていた。
しかし、父はそんな息子を心配げに見守っていた。気持ちばかり大きくなるのはわかるが、あれこれと手を広げるものではないと、新しい卸先を日々探しにゆくと言っては昼時になると毎日、町へ出かける息子の背に眉を顰めていた。
ある日、文左衛門はどこに行くのだろうと、店の小坊主に誠一郎の後を尾けさせた。帰って来た小坊主が言うには、“権助蕎麦”に出入りし、蕎麦を喰らいながら、店主である娘の方をじっと見ていると言う。文左衛門はその娘の事が気になり、調べてみることにした。文左衛門はとある岡場所で三月半程、その娘が働いていたことを知った。
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