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栞の人へ
九段からの帰り道。私がその人を見つけたのは偶然だった。特にすることも無い放課後。時間を持て余し、16歳にはやや敷居の高い古書店街を歩いていたときのこと。梅雨明けのカラリとした日差しが降り注ぎ、多くの書店では外側の本が焼けないように日除をしている。
立ち並ぶ書店と、古めかしい喫茶店、値段のわからない雑貨店。平日の午後という時間帯のせいもあるのか、人はまばらである。いかにも文学好きと行った大学生や、近辺で働いているだろうサラリーマンが投げ売りの本を冷やかしているのがザラである。
その中でも、一際小さな店だった。くすんだ深緑の日除がされたワゴンに、雑多に並べれた数百円のカバーの無い文庫本。冷房はまだ入れていないようで、ガラスの扉は半分ほど風を通すためか開けてあった。ガラス扉には書店の名前だろう、【静謐古書】と書かれていた。特別、国語が得意なわけでは無いが店名が読めないというのは、ここ数年で初めての経験だった。
文字を良く見ようと近付くと、少しだけ歪みのあるガラスに私が映った。白字で書かれた書店名はやはり難しく思案していると、不意に近くで若い男性の声がした。
「何か気になる?」
そのとき、何よりもまず古いインクの匂いがした。この香りを、私は永遠に覚えているのだろう、と瞬間的に本能が告げた。
※※※
古書店に通うようになって、数週間が過ぎた。平日の古書店街は17時には早々と閉めるので、授業後に行くと長居はできない。時間があったとしても、たいして店の売り上げにはならないワゴン本をたまに買うくらいの私は、毎日行くことはできなかった。
私はこれが、叶わない初恋であると自覚していた。中学から女子校に入ったため、憧れる男性というのはテレビの中のアイドルや、俳優ばかりだった。それは虚構だということを自覚する程度には、私は大人になってしまった。
歳も名前も知らない、多分その書店の息子さんだろうその人と、少し話せれば良いだけの淡い淡い恋をした。友人に話せば、きっとどこがいいのかと聞かれるような人なのだろう。最初と変わらず、古書店独特の香り。一度も染めたことのなさそうな黒髪に、いつも眠そうになりながら眼鏡の奥で目をしばたいている。そっと扉から中を覗くと、軽く目で会釈してくれるのが嬉しかった。
週に数回行っては本を眺める。段々と暑くなっていく日々に、いつだったか「中もよかったら。」と声をかけられたときは、舞い上がるような気持ちだった。触ってはならない神聖な空気がそこにはあった。古ぼけてはいるものの、一つ一つが大切なのだと店内の本棚は語っているようだった。売る気がそもそもあるのか、と思うほど1冊さえこの店から消えてはいけないような空気があった。そこへの訪問を許されたことは、まさしくその人そのものに触るような感覚だった。
通い詰めてから最初に購入したのは、外のワゴン本の中で見つけた古い詩集だった。教科書にのっている詩人だったので、私でも理解できそうという単純な理由からだった。もし、私がもっと大人であれば、作家に詳しければ、違う本を手にとれたのかもしれない。店番をしながらその人が読んでいる本はどれも難しそうで、とても私には話題が振れそうではなかった。
「この人、僕も好きですよ。今も国語でやるの?」
「はい。載っていました。」
「楽しんで。」
本を差し出し、代金の200円を払う間の僅かな会話。その人の穏やかな顔は、この小さな詩集への愛に溢れていた。サービスらしい書店のロゴが入った栞がその人の細く綺麗な手で表紙裏に挟まれた。手渡された詩集は受け取った途端、日焼けした茶色の背すらきらきらと見えた。
その夜は、順番にその詩集を読んだ。特別有名ではなさそうな一片の詩が、ふと目に止まった。
こいはゆめ
恋は夢
鯉はユメ
ぐるりとまわる
切ないと刹那とセスナ
オチテイルカイ?
どこへいく コイ
意味がわかるようで、わからない詩だった。それでも、これは恋の詩だと思うことにした。大切な栞を、私はそのページにそっと挟んだ。
※※※
初めて平日以外で、古書店を訪ねたのは9月に入ってからだった。九段にある学校には、普段30分ほどかけて電車で通っている。友人の練習試合を午前中見た帰り道、ふといつもの癖で古書店街へと足を向けた。休みの日はそこそこ混むと聞く界隈で、あの人がどのように過ごしているのかが気になったのだ。お客さんは多いのだろうか。それとも、いつものように閑古鳥が鳴いているのだろうか。学校指定の革靴は、走るのには全然向かないが心持ち歩みが早くなった。
「いらっしゃい。」
「こんにちは。」
ガラス扉を開けて入ると、音に気がついて声をかけてもらえる。これはクーラーが入った7月中旬からのことだった。私はこの小さな挨拶を、大切に大切に毎回持ち帰っては反芻するのだった。3ヶ月近くも通うと、店内でも手頃な本を見つけることができるようになってきた。それでも、最初に圧倒された重厚な本棚は表紙を眺めることしかできなかった。
「こんにちは。暑いわね。」
「よかった。入荷したのを、いくつか取り置きしていたんですよ。」
ガラリと音を立てて、扉が開かれた。まだ夏が残る日差しに照らされたその人は、一目で知的な女性然としていた。品の良いワンピースに、高すぎないパンプス。薄い化粧が、より一層その人本来の美しさを際立たせていた。
二人の関係は、私には推し量ることはできなかった。ただ、あの人の「よかった。」という一言で全てわかってしまった。あの人は、この綺麗な人を好いているのだ。大人の恋は分からなくても、恋の声くらいは私にもわかったのだ。きっと伝わっていない私の声には、恋が乗っている。同じ音を、聞き違えるはずは無いのだった。
「また来ます。」とだけいつも通りになるように伝え、ほとんど返事を聞かない前に外へ出た。ハードカバーの古本を一つ一つ手にする彼女は、それだけで映画のようだった。それを見つめるあの人を、私は見ることができなかった。不意に、詩の一節を思い出した。
ぐるりとまわる 切ないと刹那とセスナ
※※※
9月の中旬は、学力テストだった。一応進学校ではあるので、それなりにテストは厳しい。2日目の昼前。私を含め、クラスメイトは試験が終わった開放感に包まれていた。試験の間は午前放課となるので、各々部活やら遊びの約束で教室は賑わっている。
古書店には、あれから10日ほど行っていない。元々それくらい開くこともあったが、平日でもいくのを躊躇っていた。いつもなら、いの一番に行っていた場所だが足が向かなかった。どうしたものかとぼぉっとしていると、友人が声をかけてきた。
「ねぇ、雑誌に出てたカレー屋さん行かない?」
「今日は帰りに食べていいってお小遣いもらってるよ!」
突然の誘いだったが、たまの贅沢は電車組の特権である。友人と連れ立って歩いていくと、段々と通いなれた道となり、予想通り古書店街へ出た。そういえば、この界隈はなぜかカレーも有名だったな、と思い出す。
「私、あまりこちら側来ないんだよね。」
「そうなんだ。私はたまに散歩して帰るよ。」
「いいね!私たちに買えそうなのは少ないけど、見てるだけで楽しいかも。」
楽しそうに古書店街を眺める友人は、数ヶ月前の私のようだった。少し行っては足を止め、ワゴン本を眺めては笑う。私もこういう顔をしながら、歩いていたのだろうか。
「ねぇ、あれ読める?せい・・・しず?」
狭い路地の反対側は、目に入れないようにしていた、あの人の古書店だった。
「せいひつ、って読むんだって。」
それは、最初にあの人が教えてくれたことだった。もしかしたら、最初のひとときが一番言葉を交わしたかもしれない。
「どういう意味?難しいね。」
「静か、とか落ち着いてるとか。そういう意味だって。」
「かっこい!なんかさ、大人っぽい言い方!」
古書店の字を眺めようと、友人はあっという間に道の反対側に渡ってしまう。心は泊まりたいのに、足は友人を反射的に追いかけてしまった。いつかの私のように、友人が文字を読んで、少し歪んだガラスに写っている。
不意に、店内で本を読むあの人と目があった。変わらずに目だけで軽く会釈される。この対応は、以前と何も変わらない。
「こういう字なんだね。使うことなさそうだけど!」
「かもね。カレー屋さん、この先?」
「うん!スマホに入れてるから!」
せめてあの人の香りが、上書きされるように。そんなことは、きっと一生ないのだけれど。私はきっと、この小さな恋を大切に大切にしまっておくのだ。
詩集に挟んだ栞が色あせるまで。
ぐるりぐるりと。
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