短パン物語

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035d9846-63e5-4a63-8e1c-b5d2acab2959キリスト教には洗の父・母と洗の息子・娘という関係性がある。つまり、子供が洗礼を受ける時に立ち会う大人が「洗の親」と名付け、洗礼を与えた子の精神的な上達を神の前で責任を持って「担当する」。 私が洗を与えた二人の甥達の精神的な上達に十分時間をかけたとは言えず、反省しなければならない。ただし、年に一回ぐらい教会に連れて朝の祈り会に参加する事は真面目に数年に亘って徹底した。 一回だけは大きなしくじりにあった。甥達と地下鉄で待ち合わせて、二人がちょっと遅刻したが、遅刻より不安に感じたのはこいつ等が短パンを着ていたもの。あの格好で普通は協会に入れてもらえないし、且つ今回行く事にした教会は規律の厳しい修道院であった。まあ、仕様がないからとりあえずダメもとで教会に向かったが予感通り入れてもらえなかった。でも、年に一回しかいかないから諦めてはいけず、どこかで長いパンツを買おうと思い、走り出した。朝早いから殆どの店が閉まり、唯一開いていたのは古着の店。探し出したら、二人が時間感覚所謂「タイムマネージメント」が全くなく、「似合わないから違うものを試着してみる」とか頓珍漢な事で30分もかかり、ようやくストライプ一のスポーツパンツにし、また教会に走り出した。汗だらけで変な恰好で息もまだ収まっていない我々三人がようやく祈り会に入った。間もなく解散となった。後5分あれば雰囲気に乗ってみんなと一緒にお祈り謡えただろうが試着で時間を取り過ぎて苦い後味を感じた。仕様がなく、ああいう経験も人生の一味なのだろう。
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