被害者遺族捜査権 第1部

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 凝ったレリーフのある、優美な手すりに導かれ、長い階段を三階まで昇った。足がスリッパごと埋もれそうな絨毯。踊り場の窓にはステンドグラス。やっぱり日本は格差社会なんてもんじゃない、立派な階級社会だ。  三階の廊下を進んだ突き当りの部屋で、先導してきた上泉慎が立ち止まった。 「この部屋は事件以来、封印してたんです」 「それじゃ、十五年ぶりに入られる」森北が訊くと、 「いえ、ぼくは先週入ってみました。申請が通ったって連絡があったから、早速見ておこうと思って」  その時も使ったであろう鍵を取り出し、慎が扉を開けた。  ぎぎいいい……  蝶番は久しぶりの労働に悲鳴のような軋みを上げた。  そこがどんな部屋だったのかは、言われなくてもわかった。書斎……と言うより、男の理想の隠れ家、遊び場だ。ウサギ小屋では望むべくもない贅沢な空間。まず、窓が違う。丸窓なのだ。それだけでコンセプトがわかる。キャビンである。それも船長室を模したらしい。だから部屋は敢えて狭い。そこに船室に相応しい小道具が隅々まで埋まっている。  一番目立つのは、壁に掛けられた救命用の浮き輪だ。その横の古い海図は、多分大航海時代のものだろう。きちんと額装されているからには、レプリカなどではなく本物。貴重な品に違いない。故人の持ち船らしい、クルーザーとヨットの写真も飾られていた。  そして、上泉慎の殺害された父親、定太郎自身の写真。  短く刈り込んだ髪、小麦色にムラなく日焼けした肌、切れ長の眼に高い鼻梁。彫りの深い、整った容貌は、古風に美男子と呼ぶのが相応しい。体格も、スポーツマンらしく均整が取れていた。  舵輪を操る定太郎、釣りをする定太郎、逞しい上半身を晒して日光浴する定太郎、仲間と甲板で歓談する定太郎、と船の上で撮られた写真ばかりが並んでいる。家族と写っているものは一枚もなかった。  小ぶりなデスクが壁に向かって置かれていた。航海日誌を模したノート類や書籍の類。椅子は機能的な木製で、傍らには天体望遠鏡と、六分儀らしき機械まである。  反対側の壁には作り付けの狭い寝台。ベッドとはお世辞にも言えない。いかにも硬くて寝心地も悪そうだが、それもまた敢えての選択だろう。  いまから十五年前、三十歳の若さで死んだ、この屋敷の当主であり大手商社の総帥であった上泉定太郎は、プライベートでは海の男だったのだ。  森北はブリーフケースからファイルを引っ張り出した。事件の捜査資料はそれこそ段ボールに何箱もあるのだが、その中から主要なものを抜粋して持って来ている。  横から覗くと、森北は現場写真を見ていた。気がつくと、慎も反対側に立って覗き込んでいる。 「父は、こんな風に死んでたんですね」彼はさすがに感慨深い声で言った。「まるで眠ってるみたい」  上泉定太郎の死体は、この小さな堅い寝台の上に、横たわっている状態で発見された。写真で見る限り、ワイシャツとズボンをきちんと身につけている。着衣に乱れがないのは、あまり抵抗しなかったからか。犯人が後で整えたからか。  俺は写真と、いま目の前にある寝台とを交互に見比べた。ふとそこに、未だに定太郎が寝ているような錯覚に囚われる。  森北が一枚めくると、次の写真は顔のアップだった。切れ長の眼は永遠に閉じられ、ブロンズ色に焼けていた肌はどす黒く鬱血して、表情も苦悶に歪んでいる。喉に、赤い索条痕。ロープ様のもので絞殺されたのだ。 「当時の資料ですと、ロープは発見されています。もともと壁に飾られていたあの浮き輪」森北は説明しながら壁を指で差した。「あそこに巻きつけられていたロープなんです。犯人はそれを使って被害者の首を絞め、そのまま床に投げ捨てています。擦り剝いて出来た傷から出血していて、その血痕が付着していましたから間違いはありません。もちろん、指紋は出ませんでした」 「出てたら、それで解決ですもんね」慎が言いながら、手を伸ばして写真をさらにめくろうとした。「いいですか」  だが、森北は慎から庇うように、ファイルを胸に当てた。 「これ以上は見ない方が」 「え? どうしてですか?」 「ご存知じゃないですか? お父さん、舌を……」  慎の頬が、少し色を失った。「あ……そうか……昔の新聞記事を検索して読みました」  慎は森北の抱えたファイルを睨むように見ている。「父は舌を切り取られていた……その写真なんですね」 「そうです。鑑識が撮った口の中の写真です」  先端を切り取られた、上泉定太郎の舌の写真。さすがにそれは、慎も見ようとしなかった。 「大丈夫ですか?」俺はここぞと攻め込んだ。「やはり遺族の方にはショックでしょう。いまからでも申請は取り下げられますけど」  だが、慎は強気に微笑んだ。 「いえ、すいません。もう大丈夫です」
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