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「ぼくも新聞とかで事件の概要は把握してるつもりですけど」慎は咳払いして、言った。「よければ捜査資料で、もう一度復習してもらえませんか?」
「そうですね」森北が頷いた。「それではまず、事件当夜のことをお話します」
森北は再びファイルを開き、細い指で資料を繰る。それを見て、慎が「よかったらデスクを使ってください」と言ったので、船長用の机にファイルを拡げ、椅子に座った。
続いて慎が、無造作に寝台に腰を下ろしたので、俺はぎょっとした。いくら十五年の月日が流れているとはいえ、父親が殺されていたまさにその場所へ平然と腰を下ろすとは。
しかし慎は怪訝そうに俺が引いているのを見て、どうぞ、と言わんばかりに自分の横をぽんぽんと叩いた。
俺は、いえ、とか何とか曖昧に呟いて、丸窓の脇に立つと壁に背を預けた。
「一一〇番に通報があったのは、一九九×年、八月三日の深夜でした。通報者は上泉千津子さん。お母さんです」
森北の淡々とした説明がキャビンに薄くこだまする。
「その日、定太郎さんは出張で名古屋に一泊する予定でした。千津子さんも主宰している慈善団体のパーティーがあり、留守にしていました。この家にいたのは当時五歳の長男、圭さん。そしてあなた自身」
「三歳でした」慎が言った。「だから何も覚えてなくて」
「他には執事の樫山さん……これは先ほどお目にかかった方のお父さんですね。ただし、樫山さんたち一家はこの建物とは別の離れにお住まいだった」
「いまでもそうですよ。樫山の父親は三年前だったかな、ガンで亡くなって、母親と二人ですけど」
「千津子さんが出かけたのは、午後五時です。六時に会場に着いて、準備をチェック。七時からパーティーが始まりました。そこで、先ほどお話に出た占星術師の住乃江リリさんに会い、久しぶりにホロスコープを見てもらうと、少し気になる星の動きがある、方位で言うと、自宅方面に不吉な気配があると言われた。不安になった千津子さんは、パーティーが九時に終わるとすぐ、会場を出ています」
「母は免許を持ってないんですけど」慎が質問を挟んだ。「移動はどうしたんですかね?」
なかなか細かい点に気がつく。やはり本気で刑事ごっこをするつもりらしい。俺はそっとため息をついた。
「その頃は住み込みの運転手がいました。えーと」森北は資料を繰った。「友倉正勝という人ですね。この人が送り迎えしています」
「へー、運転手さんがいたんだ」
慎にも意外だったらしい。と言うことは、友倉は三歳の子どもの記憶に残る前に辞めたのか。
もしくは辞めさせられたのか。
「不安になった千津子さんは住乃江さんに同行を頼み、二人は友倉運転手のクルマで帰宅しています。着いたのが十時半頃でした……ええ、そうですね」
慎がまた何か言いかけたのを見て、森北が機先を制した。
「行きは一時間しかかかっていなのに、帰りは一時間半かかっていますね。捜査本部でもこの三十分のずれを重視する意見がありました。実際、死亡推定時刻は午後八時から十時半なので、もしこの証言が嘘であれば……」
「母にも父が殺せた、と」森北が言いにくそうに言葉を濁した部分を、慎があっさり埋めた。
「ええ、まあ……ただ、それでもぎりぎりですし、アリバイ工作だとすると三人が口裏を合わせなければなりません。運転手はともかく、パーティーで久しぶりに会ったばかりの住乃江さんを共犯にするのは難しいです。まあ、それ以前から手を打っていたとも考えられますが、運転手の友倉さんは道が混んでいたからだと説明していますし、この家の防犯カメラにも十時二十八分、玄関を入る千津子さんと住乃江さんが映っていました。それで捜査本部はそれ以上追求せず、結局はっきりしたことはわからずじまいですね」
「なるほど……」
「お二人は帰るとすぐ、子ども部屋を確認したようです。自宅で何かがあるとすれば、子どもたちが危ないと思ったんですね。定太郎さんは出張でいない訳ですから、当然です。ところがあなたも、あなたのお兄さんもベッドにいて、すやすや眠っていた。ほっとした千津子さんは住乃江さんに、先生の占い、外れましたね、と言った。すると住乃江さんが、お子さんとは限りませんから、と固執して、邸内を確認するよう勧めた。そこで千津子さんは離れの樫山夫妻と友倉運転手を呼んだんですが、ここで意外なことがわかりました。樫山夫妻によると、七時半頃、定太郎さんが帰って来たと言うんです。でも、定太郎さんと千津子さんの寝室を改めましたが、誰もいません。そこで五人で三階のこの部屋に駆けつけた訳です」
「鍵はかかっていたんですか?」また慎が訊く。
「かかっていました。ここの鍵は定太郎さん以外には、執事の樫山さんだけが予備を持っていたので、それを取りに行って開けた。そして中に入った彼らは、名古屋にいるはずの定太郎さんを発見したんです」
「リリ先生の占い、当たったんだ」
「樫山さんは一一九番と一一〇番に通報していますが、定太郎さんは既に完全に事切れていて、救急車は虚しく引き揚げ、警察が捜査を開始しました。凶器のロープは現場に残されていましたが、自分の腕力だけで首を絞めることは出来ませんし、死後、着衣などを整えた形跡があるため、他殺と断定。すぐに捜査本部が設置されたんです」
「父は、名古屋には行っていなかったんですね」慎が確認した。「出張は嘘で、こっそり家に帰っていた」
「その理由は後の捜査でいろいろ調べていますが、これもいまひとつ判然とせずわからずじまいです」森北はパタンとファイルを閉じた。「ただ、先ほど触れた防犯カメラには、確かに七時二十五分、帰宅した定太郎さんが映っていました。そして十時半に千津子さんたちが帰宅して以降は樫山さんたちを交えて邸内の確認が始まりますから、検死を待たずとも、死亡推定時刻は七時半から十時半に絞られた訳です」
慎は寝台を左の掌で撫でた。そこに父親の遺した何かを探ろうとするかのように。
「さて、一旦ブリーフィングはここまでにして、住乃江さんに会ってみますか」俺は言った。「占い師の先生にも、当夜の状況を訊いてみましょう」
「そうですね」慎は頷いて、寝台から立ち上がった。
森北も椅子から立ち上がったが、その弾みでデスクに備え付けの電気スタンドに手が当たった。
「あ、すいません」
反射的にスタンドを抑えた時、思い出したように言った。「そうでした。後、一点、この現場にはちょっと妙なことがあったんです」
「妙って?」
森北は下を向いているスタンドを起こし、寝台へ向けた。
「こんな風にこのスタンドがベッドの方を向いて、明かりが点いていたんです」
「それはでも」慎は首を傾げた。「犯人が父の服装を直したりするのに、明かりがほしかったからじゃないんですか?」
「ですが、天井にも蛍光灯がありますよね」森北は上を見上げた。「それで充分だったんじゃないかと、捜査本部でも疑問が出ています。それにこのスタンドの明かりはデスクの上を照らすものなので、そこまでは殆ど届きません」
「だとすると、何のために?」
「それは結局……」
「わからずじまい、ですか。天井の蛍光灯がどれくらい明るいか、夜にまたチェックした方がいいですね……あ、そうだ」いいことを思いついた、という微笑が浮かぶ。「あさって、ウチで晩御飯いかがですか? ちょうど兄も夕方帰るはずですから紹介もしたいし、その後、蛍光灯の明るさで充分だったかどうか一緒に見てみればいい。いかがです?」
アイスコーヒーすら辞退しようとした森北は、食事などとんでもない、という表情をしたが、俺はすかさず答えた。
「伺います」
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