被害者遺族捜査権 第1部

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 定太郎のキャビンを出ると、慎が先に立ち、二階に降りた。 「この階は各自の部屋になっています」慎は階段脇の部屋を示した。「ここがぼくの部屋。事件の時は兄と二人で使ってました」  ドアを開け、中を見せる。十代の若者には珍しく、きちんと整頓された部屋だった。広さもたっぷりある。子ども用のベッドをふたつ入れても、充分余裕があっただろう。窓には真夏の陽射しを避けてブラインドが降りているが、それでも壁紙が淡いピンクのせいか、明るく清潔な印象だ。造り付けのクローゼットが半分開いていて、ぎっしり服が掛かっているのが見えた。 「で、こっちが兄の部屋です」  慎はドアを閉めて、隣に移った。その部屋の主は大学のサークル合宿で不在だ。鍵がかかっているのか、慎はドアを開けずに、次は向かいの部屋へ注意を促した。 「そこが、前は両親の寝室でした。いまは誰も使ってません」  そう言ってドアを開けると、子ども部屋の倍はある空間に、ベッドがふたつカバーで覆われ、寂し気に並んでいた。  ベッドとベッドの間には、小型のサイド・テーブルが置かれ、スタンドが乗っている。その周囲に写真立てがいくつもあった。上泉夫妻の写真だ。まだ幼い男の子と写っているものもある。  他に家具はなく、壁にも何も掛かっていない。掃除は行き届いているものの、虚ろな空気が漂う部屋だった。  廊下をさらに奥へ進む。 「客用の寝室です。もし機会があったら、泊まってください」  向かい合う四つのドアを、慎は順に示していく。そしてその奥、突き当たりの手前で向かい合うふたつのドアの間に立った。  右を差し、「こちらが母の寝室。いま休んでいると思います」  左を差し、「こちらがリリ先生の部屋です」  休んでいる母親を慮ったのか、声が囁きに近くなっていた。  慎は左のドアを控え目にノックすると、「リリ先生、慎です」と呼び掛けた。  一拍置いて、ドアが開く。しかし、細い隙間だけ。そこからビー玉のような眼が覗いたが、その高さは慎の胸くらいしかない。 「刑事さんをご紹介したいんですが」  それを聞いて、ドアがすっと放たれるように動いた。眼の主は素早く室内に下がり、それを追うように慎が入る。俺と森北がそれに続いた。  慎の部屋と同じくらいの広さだが、印象はまるで違った。こっちは雑然を絵に描いたようだ。そして、暗い。原因ははっきりしている。部屋中に積まれた分厚い本がいずれも黒や茶色の古い洋書で、まるでパリの古本屋といった黴臭さなのと、窓をしっかり塞いだブラインドも壁紙も黒一色であること。加えて、部屋の主、本人のせいである。  自称占星術師の住乃江リリは慎の肩ぐらい、俺の胸ぐらいの身長しかなかった。どういう作りになっているか定かではないが、体形のまったくわからない全身を包み込むような服も、黒一色だ。 「ミスタ・ホームズとドクタ・ワトソンって訳ね」  ちっちゃい黒い塊が言って、皺だらけの口元がにゅっと歪んだ。  どうやら笑ったらしい。  後で資料を確認したら、五十前後のはずだった。しかし、その小さく萎びた顔は老婆のそれだ。上泉千津子の若さとは対照的である。  黒いビー玉の眼が、忙しなく俺と森北の顔を行き来する。だから、どっちのことをホームズと見、どっちのことをワトソンと見たのかはわからない。 「警視庁の剣崎です。こっちは……」うっかり、助手の、と口走りそうになり、俺は慌てて、「森北」と言った。  だが、住乃江リリは俺ではなく、森北の方にずいと進んだ。 「あんた、優秀なんだね。この仕事、大抜擢なんだろ?」  森北の頬が赤くなった。ふん、と俺は思った。この事件が最近テレビを賑わせている遺族捜査であることは、この占星術師も知っているだろう。森北が若いことは見ればわかる。この年令で話題の大事件を任されるなら、つまり大抜擢だ。この程度は占いではない。推理の初歩だよ、ワトソンくん。 「後で見てあげようか?」  すべての女は占いが好きだ。森北は、口ごもった。飲みものを辞退したのと同じ理屈で、この申し出も断るべきか、逡巡している。さっきは即答だったのに今度は逡巡しているというそのことが、もうイエスと答えたようなものだ。だが、面白そうに見ている俺に気がついたのか、森北ははっと我に返って、結構です、と渋々言いかけた。すると、まだ結構の「け」までしか言わない内に、住乃江リリは慎を振り仰いだ。 「よかったね。いい刑事さんが来てくれたよ」  お墨付きをもらって、慎は嬉しそうに頷いた。  占星術師は、俺については何も言及しなかった。
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