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煙草はくわえているが、火は点けていない。
それでも嫌そうな顔で、ちらちらとこっちを見るから、俺は森北秋紀に言った。「前見て運転しろ」
「剣崎さんって、案外潔くないんですね。止めるなら止めるですっぱり止めればいいのに」
「余計なお世話だ」
「口唇性欲って言うんでしょ? 唇に何かくわえてると気分がいい。煙草が止められないのは、赤ちゃんがおしゃぶりを止められないのと一緒」
「うるせぇっ!」
怒鳴った途端、クルマがキーーーッと停まった。
前につんのめった俺は危うくダッシュボードに頭をぶつけそうになり、「何やってんだっ!」とまた怒鳴った。
「着いたんですよ」森北はしれっと言った。「ほら」
でかいだけが取り柄の瞳で、ちらっと右手を示す。田園調布の奥座敷に相応しい、古風な洋館が聳えていた。
「ち……もう着いたのか」
俺は長いままの煙草をパッケージに戻した。大分くたっとなっている。湿気てもいる。味も落ちているだろうが、どうせくわえているだけなのだから構わない。公務員の給料で、やたら高くなった煙草をむだには捨てられない。
その間に森北秋紀はクルマを降り、西洋の城館めいた鉄門の前に立っていた。ボーイッシュな短い髪。女にしては高い背。スーツの下に隠れたしなやかな筋肉。いずれも俺の好みではない。やっぱ女は華奢で小柄で髪が長いで決まりだろう。
フロントガラス越しに見上げると、門の柱の一本一本が、槍のように先端を尖らせていた。守る物がある連中は何かと大変だ。そしてそいつらを守るのは、守る物の大してない無産階級の仕事なのだ。
などと左翼っぽいことを考えていると、インターフォンで森北が誰かと何かを話し、やがて門が自動で重々しく開いた。森北は運転席に戻ると、開いた門の隙間からクルマを邸内に滑り込ませた。
玄関前にクルマ寄せがある。そこに停めると、森北はまたちらっと俺を見た。どうもこいつの、ちら、が気に食わない。
「何だよ」
「ネクタイ、ちゃんと締めた方がいいですよ」森北は冷たく言った。「失礼のないように」
「ふん、相手が金持ちだからか」
「いいえ、誰に対しても」
若い女の部下なんか持つもんじゃない。これじゃ女房連れで仕事してるようなものだ。俺は舌打ちしたが、緩めたネクタイを締めた。相手が金持ちだからではない。決して。
ドアを開けるとそれだけで、もわっとした熱気が押し寄せてきた。降りる気が萎える。無言の気合を入れて砂利を敷いた地面に立つと、たちまち汗が噴き出した。
夏たけなわの、八月三日だった。
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