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「近々遊びに行くよ! それまでに数枚ラフでも描いて見ると良い。いとは良いモデルになるだろう」
手を振って見送る雲雀、ハイヤーの中で荷物はトランク一つ。フリルのシャツに着替えたいとと困った顔した潤一郎は自宅のある鎌倉へ向かう。また雲雀はいつもとんでもないことを……しかし今度は誘拐だなんて。このままでは潤一郎まで警察に捕まってもおかしくない。後部座席の隣ではいとが夜景をじっと見ている。
「ああ……雲雀先生の言うことは気にしないで良い。自宅か親しい人の元へ帰りなさい。このまま車を使って良いから、きっとご両親や親族の方も心配しているだろう」
潤一郎の言葉に静かにいとは顔を向けて首を振るった。悲しげな表情はどこか孤独の背景が浮かんでくる。
「本当に帰るところはないのです。あの日新宿にいたのもただ夜を明かす場所を探していて……東京は恐ろしいところですね。お願いします、どうか私を先生のお家に置いてください」
こうして潤一郎もいとの震える声に深々と頭を下げられてはもう連れて帰るしかない。仕方がないと覚悟を決めて、車は静かに鎌倉の自宅へと向かった。
***
築半世紀は経った木造家屋平屋建て。駅から離れ人数の少ない街の外れに、皆月潤一郎は一人で暮らしている。造りが古く雨漏りや軋む廊下に困る時もあるものの、圧倒的に静かな環境で創作活動できると潤一郎は気に入っていた。建て付けの悪い引き戸を開けてようやく帰宅したのはもう午前一時も過ぎた頃だ。いとはものめずらしそうに辺りを見渡している。ヒビの入った砂壁は流石に雲雀の屋敷にはなかったか。
「物置がわりに使っていた部屋があって、少しカビ臭いかもしれないけれど……」
「私にお部屋を貸してくださるのですか?」
「古いからね。雲雀先生のお屋敷とは比べてはいけないよ」
「いいえ、そんな……」
小さな庭の見える縁側を通って潤一郎の部屋の隣、いくつかの穴の空いた障子の目立つ暗い部屋の明かりを点ける。本棚とそこに入りきらない資料の積み重なった六畳ほどの部屋だった。
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