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潤一郎が人影のないバス停で駅に向かうバスを待ってもう十分がたつ。ただでさえこの辺りのバスは三十分に一本しか来ないのに、早めに家を出てきてよかったと潤一郎は空を仰ぐ。そこにはどこからか舞ってきた桜の花、いとは自宅で留守番をしている。
『すみません、私、料理出来ないんです……家事は全部亡くなった祖父がしてくれていました。でも、私に家事を教えてください。お役に立ちますからどうかこの家から追い出さないで、先生』
そんな言葉を泣きそうな顔をしていとは言った。別に追い出しはしないが、あの歳でどこにも帰るところがないなんて。不憫だ、そんな感情が潤一郎の心に響く。まだ二十歳にもなっていないだろうに。しかしそれぞれの家庭に理由はあるもので、それは潤一郎にも共感するところがある。
早くに両親を亡くした潤一郎を育ててくれたのは父方の祖父母だった。彼らは絵を描くことをひどく反対して、仕方がなく潤一郎は深夜三時まで薄暗い部屋で静かにデッサンをしていたものだ、二人に気づかれないように。
ようやくやってきたバスに乗り込んで潤一郎は最寄り駅まで向かう。午前八時、駅前の絵画教室の授業は十時からだ。その絵画教室には様々な年代の生徒が集まって来る、時には周りに反対されてもどうしても絵を諦めきれなかったというものも。そんな生徒を見る度に潤一郎は共感を覚えて、なんとも言えない気持ちになるのだった。
駅前は今日もそれなりに騒がしい、しかし東京のそれとはちょっと違って都会にはない希望やロマンも混ざっている。楽しいことは良いことだ、息抜き出来なければ救われない。絵画教室の鍵を開けて潤一郎は教室の空気の入れ替えをして、また少し咳き込んだ。病弱な少年は大人になってもあまり変わらないようで、しかし潤一郎の病院嫌いはあの雲雀にすら怒られるものだった。放っておいてくれ、そう言い返せば数倍の言葉が返って来る。どちらかと言うと平坦な感情で生きている潤一郎はそんな雲雀が羨ましい。何を考えているのかわからないとか、表情が読めないから近づき難いとか。そんな人々が多い中でいとは潤一郎と暮らしたいと言った。確かに帰る家がなければ仕方がないが、嫌いな人間とは一緒には暮らさないだろう。今度この街を一緒に歩いて紹介しよう。まだまだ知らないいとのことだ。それもこれからお互いにわかり合って行けたら……。
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