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一章 9
五時間はあっという間に過ぎた。
量子論や魔法使いのことを考える暇はなかった。明日は十一時から翌朝六時までであることを確認して店を出ると、夜道を飛ばしてアパートに戻った。
菜穂子は帰っていなかった。
窓を開け、椅子に座って煙草を吸った。隣のアパートに洗濯物が干されたまま放置されているのが見えた。誰かが大声を上げていた。若い男性の声だ。母親や姉にはできるかもしれないが、自分にはできないのだと主張している。できないんだと男は繰り返し絶叫していた。なぜか、それは今朝、樹里の家で聞いた犬の吠える声と似ているような気がした。
魔法使いを名乗った男は、樹里に飽きたとはっきり言った。飽きた女に手間をかける男はいないものだ。それは樹里が外出する日が少ないことでも分かる。あの男は、気が向いたときにしか樹里と会ってはいない。孤独と疑心に苦しんでもおかしくない状況に樹里はいる。
部屋に閉じこもったままの樹里が、どうして幸せだと言えるのか不思議だった。
一日はとても長いものだ。何の目的も見つけられないまま閉じこもるには長すぎる。僕はそれを良く知っている。
短くなった煙草を消した。あの男が樹里に何をしたのか、いくら考えても見当がつかなかった。
あの男が、菜穂子に近づくかどうか考えた。
菜穂子は東広島タイムズというフリーペーパーの営業をしている。昼間はスポンサーを飛び回り、夕方以降は会社に戻って広告のラフを作っている。東広島に広告代理店は一軒しかないため、営業が全てを手配しなければならない。仮にあの男が本当に魔法を使えるのだとしても、それを聞く時間が菜穂子にはないはずだ。聞いたとしても、菜穂子がなびくとも思えない。
僕たちには問題が生じている。だからといって菜穂子が近寄ってきた男に簡単に乗り換えるようなことは起こらないはずだ。僕たちが終わりを迎えるのだとすれば、唐突なものではなく、ゆっくりと時間をかけ、徐々に終わるはずだった。いきなり太陽が沈むわけではない。そう考えて、愕然とした。
これまでずっと菜穂子と一生を共にするのだと思ってきた。別れるかもしれないと予感したことは、一度もなかった。永遠だと信じていたことが覆る感覚は、初めて死を理解したときの感覚に似ていた。
子どものころ、自分が死ぬことなど考えもしなかった。年月が過ぎ、そうではないことを知った。そのときの恐れと、今の恐れは酷似していた。
煙草に手を伸ばして火を点けた。いつの間にか、若い男の声は聞こえなくなっていた。
菜穂子が帰って来たのは、十一時を過ぎてからだった。
「座ってて。すぐに支度するから」
彼女はコートを脱ぎ捨てると、パンツスーツのまま台所に向かった。足取りは軽く、躍るようだった。
「美味しいもの作るからね」
「手伝うよ。それに食器だって洗ってない」
「いいから座ってて。一平だって疲れてるんだから」
昨夜の影響は微塵も感じさせないような、明るい顔だった。作ったような表情ではなかったが、あまりに明るすぎた。バラバラだったジグソーパズルが気がついたら完成していたような気分だった。
「遅くなってごめんね。仕事、終わらなくて」
「洗うよ」
「じゃあ、やっぱりお願いしようかな。野菜あったっけか」
冷蔵庫まで歩いて、菜穂子が座りこんだ。泡だらけのまま、駆け寄った。
「ごめん」
笑いながら菜穂子が顔を上げた。目が真っ赤だった。
「酔いが回って。缶チューハイ飲んできたの。ごくごくって。すぐそこの自販機で」
「どうして」
「怖かったの」
単純に菜穂子は言った。
「帰ってくるのが怖かったの。どうしていいか分からなくて。景気づけのつもりでチューハイ買って飲んだんだけど、お腹空いてたから急に回っちゃったみたい。一平がいなかったらどうしようと思ってたの」
「いるよ」
「でもいなかったらどうしようって思ったの。一平がいなかったらどうしようって今日一日、ずっと考えてた」
「菜穂子」
「あたしの荷物が表に放り出されてるかもしれないとも思った。とにかく色々考えたら帰るのが怖かった」
僕は床にしゃがみこみ、菜穂子と目線を合わせた。
「僕はどこにもいかないし、菜穂子の荷物を放り出したりしない」
「うん」
「僕たちはずっと一緒だ」
「うん」
「心配しなくていい」
「本当に?」
縋るような目で、菜穂子が言った。
「絶対に大丈夫?」
確認したいのは僕のほうだ。心が揺れるのが分かった。
「絶対だ」
手の平についたままの泡が弾け、洗剤が指を伝って床に落ちてゆく。菜穂子から目を逸らさなかった。
「これからも僕たちはずっと一緒だ」
菜穂子が小さく息をつく。見つめながら思った。僕はそう信じたいだけだ。胸が痛いほど、そう願っているだけだ。
「良かった」
床を見つめた。洗剤が涙のあとのように点々と残っている。願望を口にしたはずなのに、舌には嘘の味があった。願いと嘘は似ているのかもしれない。そう思ったが、菜穂子にそれを告げなかった。
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