一章 10

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一章 10

 僕と菜穂子の間には、深い溝がある。  僕は広島出身で、菜穂子は静岡出身だ。アメリカが原子爆弾を使用した理由について、菜穂子は戦争を終結させるためだと思っていた。僕は違う。アメリカは原子爆弾投下と共に熱量や破壊力を調べる装置を投下しているし、戦後、治療と称して被爆者の血液や皮膚、残存放射能を調べたことを知っている。アメリカは新しい、しかも驚異的な切り札となり得る兵器を実験するために、原子爆弾を投下した。それは広島県民にとってはある意味常識であり、毎年、広島の小学生は八月六日に登校し原子爆弾についての教育を受ける。広島のテレビ局はほとんど一日中、そのことを教えてくれる。だから誰でも知っていることだと思っていた。菜穂子は知らなかった。原子爆弾が投下されたのは、長引く戦争にピリオドを打つためだと思っていた。  それはアメリカの言い分だ。言わば加害者の口にする正当性だ。アメリカを憎むべきだとは思わないが、だからと言って原爆を落とされ、想像を絶する被害を与えられた側の人間が、アメリカの理屈に頷くことはない。  菜穂子と出会うことによって、そういう論理は広島県民独特のものだということを僕は知った。僕の原爆投下に関する見識は、広島県独自の教育の賜物だということを知った。だが、それがどうした? それが広島という地域だけに浸透していたとしても、アメリカの論理が正しいとは言えないはずだ。  プロレスに、ジャーマンスープレックスという技がある。相手の後ろから腰に腕を回し、そのまま後方に反り返って投げる技だ。和名を原爆固めと呼ばれる。スポーツ新聞やプロレス週刊誌は文字数節約のためか、その技を原爆固めと表記することが多い。が、ひとつだけいかなる場合においてもジャーマンスープレックスと表記する雑誌がある。唯一の被爆国が原爆固めと表記をするのはおかしいという読者からの指摘があったからだ。それを受け、ジャーマンスープレックスという呼称しか使わなくなった。僕が小学生のころの話だ。日本語が表音文字ではなく表意文字だったころの話だ。  穿った見方をすればその雑誌社は抗議が怖かっただけかもしれない。それは分からない。ただ、二誌あるうちのもう一方の雑誌では今でも原爆固めと表記していることを考えると、そういう卑小な回避ではなく、心意気なのだと思えた。僕がプロレス週刊誌を買うときは、ジャーマンスープレックスを買う。原爆固めは買わない。  時代や性別だけではなく、地域によって、環境によって、与えられた教育によって、人は変わる。  僕たちには、目に見えるほどはっきりとした溝がある。  最初に菜穂子と出会ったのは図書館だった。何度か顔を会わせるうちに親しくなり、ある晩、菜穂子が電話してきた。トイレの水が止まらないのだと言う。タンク裏のレバーを固定するネジが弛んでいるか、フロートと梃子を使った仕組みが壊れているか、一番可能性が高いのはタンクの底で水を止めるためのゴム栓が穴に嵌ってないのだろうと伝えた。事実、ゴム栓が穴に嵌ってなく、レバーを固定するためのネジが弛んでいた。菜穂子はありがとうと言い、僕はなんでもないことだと言った。それから良かったら、一緒に食事しないかと持ちかけた。あたしもそれを考えていたの、と菜穂子は言った。  会うたびに、惹かれた。  五度目のデートのとき、僕たちが座ったテーブルはがたがた揺れた。四足のタイプではなく、天板を垂直に伸びた柱が支え、十文字になった土台が支えるタイプのテーブルだった。僕は菜穂子にちょっと待つように言い、土台のひとつに触れた。このタイプのテーブルは床と接する部分にネジがあり、それを調節してがたつきを押さえることができる。テーブルが安定すると、菜穂子の僕を見る目が変わった。その夜、初めて僕たちはベッドを共にした。極論すると、僕が菜穂子の心を射止めることができたのは、ネジが弛んでいたおかげだということになる。ネジはいつの間にか弛んでいるものだが、恋の成就に役立つこともある。それに弛んだネジは締めればいい。簡単なことだ。  菜穂子の寝顔を見つめながら、ネジについて考え続けた。  あの後、菜穂子はあっという間に眠りに落ちた。缶チューハイは景気づけだけではなく、睡眠をも助けたのだろう。  弛んだネジは、締めればいい。問題は、どのネジが弛んだのか分からないことだった。  一晩中考えていたが、具体的な解決策は見出せなかった。このまま走り続ければ、分解する。それだけが睡眠を放棄して得た、あまりにもささやかな成果だった。朝になっても啓太は電話して来なかった。  どうやったら時間を作り出せるか考えながら、神社に向かった。馬鹿兄貴の心境を考えると、啓太の件に時間をかけたくなかった。樹里の身辺も調べなければならない。  神社に着くと、先に由梨が来ていて、石段で煙草を吸っていた。 「お金はね、チャトレで稼いだ」  少し距離を開け、由梨の隣に座った。持ってきた缶コーヒーを渡し、自分のコーヒーのプルタブを開ける。啓太の家を眺めた。家の正面に、細いあぜ道が通っている。真新しい自転車が横倒しになって放置されていた。すぐ近くに建っている薄ピンク色のアパートは、今日も人の出入りがない。晴れた空の下、動いているのは風に身を任せている生い茂った雑草だけだ。 「チャットレディね、稼げるのかあれって」 「コーヒーありがと。あたしがやってるのはカメラつきのライブチャットってやつなんだけど、そこそこかな。一分チャットすると四十円になるし」  頭の中で計算してみた。一分で四十円ということは、一時間で二千四百円だ。 「そりゃすごい」 「お金だけじゃなくて一分話すと一ポイントあたしにつくんだけど、千ポイントになると一分五十円になるの。千ポイントなんてすぐだから、実質は五十円かな」  一時間三千円。 「ちょっと羨ましい」 「でも変態ばっかだよ」  由梨が言った。 「向こうにもカメラついてることがあるんだけど、いきなりオナってるとこ見てとか言って、下半身モロ出しとか。相手が接続してくれてたらお金になるから見てあげるんだけど。おかげで何本も見たし。脱げ脱げ言われるのは普通だしね」 「脱ぐのか」 「脱がないよ馬鹿。脱ぐと首になるとこもあるし。そうじゃないとこもあるけど」 「かけもちしてるってことか」 「今は五つ登録してる。アダルトオッケイのところはひとつだけだよ。客の食いつき悪いときだけ繋げるけど、後は顔出しにちょこっとしか行ってないな。つっても普通のとこもチャットエッチしようとか、下ネタトークとかバンバンだけどね。大体三十代後半の既婚者が多いね。最近はセクハラとかうるさいから、ネットで解消してるんじゃない? 中には全然話してこない人とかもいるけど。まあ引きこもりくんにも行けるキャバクラみたいな感覚かもね」 「なるほど」 「でも男の人は十五分で三千円かかったりするんだよ。普通に風俗行けばいいのにとか思うね。不思議」 「風俗は嫌だって男もいるからな」  ある浮気調査のことを思い出した。その男は高校生の女の子と援助交際をしていた。風俗には愛がなく、別の男と比べられてしまうからというのがその男の言い分だった。自分は高校生を援助していただけで、身体が目的じゃなかったんだと男は熱弁した。離婚すべきだろうと僕は思ったし、クライアントである妻もそう判断した。 「風俗だろうとネットだろうと、浮気は浮気なのにね。あたしが男だったら、画面より生がいいけど。稼がせてくれるから、いいけどさ」  由梨のルックスなら稼げるだろう。キャバクラ並みの時給でかけもちできるなら、あり得る話だ。  伺うようにこっちを見ながら由梨が言った。 「これであの人のこと、教えてくれるの」  昨日、再度取り引きを持ちかけてきた由梨は、断わるなら店に入って騒ぐと言い、バイトが終わったら部屋までついて行くと言い放った。由梨は自転車に乗っていて、おまけに旦那は出張中だった。僕としては、とにかく話を聞くと約束するしかなかった。 「あんたがチャトレで稼いだって証拠はあるか」 「そういうだろうと思った」  由梨はバックから通帳を出すと、僕に開いて見せた。複数の、何をやってるのか見当もつかないような名前の会社から、多額の振込みがあった。平均で五十万前後。百万近い月もある。僕は顔を上げた。 「浮気するなら、チャトレの客にすればいい」 「どういうこと」 「これだけ稼ぐってことは、常連の客がいるんだろう」 「そりゃ、少しは」 「だったら相手はそいつらから選べよ」  高木家を見る。日の当たるコンクリートの道を、白い猫が横切っていた。 「客は変態ばっかだって言ったでしょう」 「鳴戸遼平だってストーカーじゃないか。どこが違うんだよ」 「あの人は、あたしの身体が目当てじゃない。全然違う」 「鳴戸遼平はあんたの客の一人なのかもしれない。チャットであんたを気に入って、偶然あんたが歩いてるのを見たのかもしれない」 「だったらチャットで見かけたって言ってくるわ。浮気は良くないとか説教する気?」 「説教しても意味なんてないだろ。浮気したいやつはするし、しないやつはしない。理解するつもりもないが、止めようとも思わないな」 「だったら」 「だから勝手に浮気すればいい。僕を巻きこむな。客がいっぱいいるんだ、よりどりみどりだろ? 客が嫌なら、ホストにでも行けよ。僕に十万払うよりよっぽどサービスしてくれるはずだ」  高木家を見た。二人の男が玄関から出てくる。ウェストポーチから写真を取り出して確認した。啓太の父と、敏郎だ。二人は並んで歩き、三七五号線のほうに向かった。八時五分。啓太に電話したが、まだ電源を切ったままだった。 「あんたは気づいてないんだね、AF」  由梨の声には刺があった。携帯を切って由梨を見た。 「何の話だ」 「あんたがどうしてアナルファックしたいか気づいてる? あんたはね、他の穴に入れたいだけよ。浮気したい気持ちをごまかしてるだけ。ディスプレイの浮気は浮気じゃないって思ってる馬鹿な客とあんたは同じよ」 「違う」 「違うと思ってるのはあんただけだったりしてね」  あなたの思いこみかもしれないという魔法使いの言葉が、耳の奥で木霊した。菜穂子の涙が脳裏に浮かび上がる。どうして菜穂子とアナルファックしたいか、理由が喉元まで出かかった。  口から出たのは、別の言葉だった。 「なんでとっとと遼平と会わないんだ」  由梨は答えなかった。しばらくの間、僕と由梨は石段に座ったまま睨み合った。強い風に木々がざわめいた。小山全体が、寒さに身体を震わせているようだ。缶コーヒーはとっくに冷たくなっていて、指先がかじかんできた。 「怖いからよ」  由梨が視線を逸らした。 「あたしは十八で結婚して、ほとんど遊んでないの。最初の彼氏が旦那だった。他の男のあれを見たのも、チャトレ始めてからよ。それまでは全然見たこともなかったし、見る機会もなかった。男はやりたいだけで、やるまでは嘘でも何でも口にするって思ってた」  由梨の声は、熟練の音響担当者がボリュームを絞るように、少しずつ小さく掠れていった。 「だって男はそういうものでしょう? 旦那だってそうだったし、他の男もそう。股を開かせるためだったら、ちやほやして、歯が浮くような文句並べて、とにかく褒めて。でもあの人はそうじゃなかった。何も言わないで窓の外に立ってた」  顔を上げると、髪をかきあげた。 「男の浮気と女の浮気は違うんだよ。妊娠とかで損をするのは女なんだから。それでも、あたしは遼平さんと会ってみたかった」  ただそれだけよと言って、由梨はまた顔を伏せた。  由梨の言葉は、心の呟きがふと外に漏れてしまったようにも、十分に計算された台詞であるようにも聞こえた。感情はこもっていたが、口にした言葉はありきたりのものだ。女の浮気は男の浮気とは違うというのは、浮気した女がいつも口にする台詞だ。本気だろうが嘘だろうが、浮気は浮気だと僕は思う。  だが、これで金の出所を疑う理由はなくなった。  どうすべきか考えながら、下を見た。高木家に続く、両脇に雑草の生い茂った白いコンクリートの道を、敏郎が歩いているのが見えた。足取りが緊張をはらんでいるのが、遠目にも分かった。  腰を浮かすと、電話が鳴った。 「もしもし。どうしました」  舌打ちをこらえ、中腰になったまま僕は言った。敏郎が玄関のドアを開け、中に入っていく。ドアが閉まるのが見えた。音が聞こえないのが不思議なほど、全ては鮮明だった。 「樹里が」  吉川智恵子が暗い声で言った。 「樹里がいないんです」 「いつ頃いなくなったか分かりますか」 「分からないんです。今朝、玄関を見たら靴がないことに気がついて、それで」 「これまでにも、何度かそういうことはあったんですよね」 「ええ」  敏郎はまだ家の中だ。何をしているのか分からない。 「どうしたらいいんでしょう」 「できる限り早くそちらに伺います。待っててください」  電話を切って立ち上がった。由梨が険しい表情で僕を見ていた。 「どこに行く気? 教えてくれる約束でしょう」 「話を聞くと約束しただけだ」 「そんな約束した覚えないけど」  まだ敏郎は家から出てこない。僕は舌打ちして、携帯電話を操作した。由梨の携帯が鳴る。 「メールに書いてるアドレスは遼平のブログだ」  僕の言葉に、由梨が携帯を開く。 「読んで、浮気するかどうか、金を払うかどうか決めればいい」  石段を駆け下りた。高木家が木々に遮られて見えなくなった。 「ありがとう」  上から由梨の声が降ってきた。とにかく読めと言い捨てて、僕は走った。ブログには由梨への想いだけではなく、今日子との幸せな日々も綴ってある。喜びと痛みを由梨は感じるだろう。礼を言うのは気が早い。  頭を敏郎に切り替えた。
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